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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1924(大正13)年8月7日 (84歳) 日米協会会長、金子堅太郎 【『渋沢栄一伝記資料』第35巻掲載】

是より先七月二十二日、当協会会長金子堅太郎アメリカ合衆国千九百二十四年移民法の制定により感ずる所ありて辞任を表明す。仍つて是日、栄一書を金子に送り慰留せしも容れず。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 2節 米国加州日本移民排斥問題 / 8款 日米協会 【第35巻 p.603-610】
・『渋沢栄一伝記資料』第35巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/35.html

金子堅太郎自身による当時の回想が、『斯文』からの転載として『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.609に掲載されています。

斯文    第一三編第一二号・第四−五頁 昭和六年一二月
   日米親善と渋沢子爵              金子堅太郎
○上略
その後、アメリカが移民法で日本人を排斥した時も、自分と提携してアメリカの主要人物を銀行倶楽部に御招きして、アジア人だからとて排斥するのは七十年前ペルリが来て開国を迫つた事と大に矛盾してゐる。のみならず自分の方の都合ばかり考へて、日本の国威を如何にするかといふので、種々折衝を重ね円満なる解決法を求めたのである。然るにアメリカはその抗議あるにも拘はらず、遂に帰化不能外国人の名によりて新移民法案を通過したのである。これ実に日米協約を無視したる専断の行為であつて、国際道徳上許すべからざるものであるから、自分はもはや之までなりと断念して即時に日米協会の会長を辞したのである。当時子爵[渋沢栄一]は日米聯合マヽ会委員であつたので、自分に極力留任方を勧告せられたが、自分はどうしても辞意を翻す訳にはいかなかつた。そこで子爵は已むを得ず、その後は一身に背負つて日米親善に尽力して居られた。[後略]

当時の日米関係には、次のような背景がありました。

  • 1906(明治39)年 サンフランシスコで日本人学童隔離事件起こる
  • 1908(明治41)年 日米紳士協定成立
  • 1913(大正2)年  カリフォルニア州議会、第一次排日土地法可決
  • 1920(大正9)年  カリフォルニアで第二次排日土地法成立
  • 1924(大正13)年 アメリカで排日移民成立

  出典:五百旗頭真編『日米関係史』 (有斐閣, 2008.03) 巻末年表
金子堅太郎(かねこ・けんたろう、1853-1942)は、明治憲法の草案起草に参画し、法整備に尽力した政治家で、農商務大臣、司法大臣などを歴任、また日米協会等の社会事業にも関与した人物で、『渋沢栄一伝記資料』の中にもその名が数多く登場しています。
参考:金子堅太郎
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/57.html