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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1918(大正7)年8月15日 (78歳) 東京臨時救済会 【『渋沢栄一伝記資料』第30巻掲載】

是年、世界大戦の影響等により米穀其他の諸物価暴騰し、各地に暴動勃発し、是月十三日東京に波及す。是日、東京臨時救済会組織せられ、栄一之が会長に推さる。爾後同年十二月会務終了に至る間、会務に尽瘁す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 1章 社会事業 / 2節 中央社会事業協会其他 / 4款 東京臨時救済会 【第30巻 p.682-758】
・『渋沢栄一伝記資料』第30巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/30.html

米価高騰を端に発生した暴動が全国に波及、東京にもその影響が及ぶに至り、東京商業会議所では1918(大正7)年8月15日午前8時より緊急役員会議を開催して「東京臨時救済会」が設立され、米廉売などの救済策が講じられることになりました。
渋沢栄一伝記資料』第30巻には、このとき伊香保に滞在していた渋沢栄一が、東京の騒動を新聞で知り、東京商業会議所の中野武営(1905-1916年に東京商業会議所会頭を務める)、藤山雷太(1917-1925年に東京商業会議所会頭を務める)へ対処を依頼する書簡を送った際の様子が、『竜門雑誌』からの転載という形で記されています。

竜門雑誌    第三六八号・第四三―四七頁 大正八年一月
   ○米価暴騰善後策 (青渊先生)
 本篇は聊か時機遅れの感あれども、昨年八月米暴動の起れる際青渊先生が執られたる態度にして、九月十五日発行の「実業之世界」に掲載せるものなるを以て、後日の参照の為め茲に転載するものなり   (編者識)
[前略] 十四日の朝刊新聞を披見[ひけん]に及ぶと、早や東京にも騒動の起つた事が掲載されてある。さてさて困つた仕儀になつた事だとは思つたが、斯う成つてしまへばもう致方は無い。[中略] 差当つての応急所置としては寄附金でも募り、目前の危機を緩和するより他に道が無からうと考へ、同日午後幸ひ帰京する人のあるのに托し、中野武営及び藤山雷太の両氏へ長文の手書を送り、斯る際にはお互が先達となり斡旋するのが従来の慣例に成つてるから、若しお互が差控へた為め、他に寄附金募集の企てを懐く篤志家があつても、私共に遠慮して見合せでもすれば不利故、兎に角お互が主唱者となり、寄附金でも募る事にしては何うか、既に斯る計劃が東京にあるものならば勝手に私の名を利用してくれ、必要とあれば何時でも直ぐ私は帰京するから、と申入れてやつたのである。
 十五日には時々刻々前日来の東京の模様を電話で報告して来るので私も彼是れ心配になり、予め電話で打合せ置きたる上、一先づ取り急ぎ帰京するに決し、十六日早朝伊香保を発し、午後着京するや否や直に兜町の事務所に入り、中野・藤山両氏の来駕を請ひ、なほ実地の事情を知る必要もあらうと考へたから、有力なる正米商三・四人を招きその意見をも聴取した上で一同凝議する事にしたのである。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第30巻p.691-692)

中野武営(なかの・ぶえい、1848-1918)
高松藩士治郎兵衛の長男。内務省農商務省書記官を辞し、小田原電気・東京電灯社長、東京商業会議所会頭、東京株式取引所理事長、衆議院議員東京市会議長に歴任した。(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.618)
中野武営中野武営
(出典:An interpretation of the life of Viscount Shibusawa / by Kyugoro Obata

藤山雷太(ふじやま・らいた、1863-1938)
佐賀県士族覚右衛門の三男。明治20年慶応義塾卒業後帰郷して県議に選ばれ議長を勤めたが、後、三井銀行に入り、中上川彦次郎に認められて芝浦製作所長に就任、ついで王子製紙専務となる。東京市街電鉄、日本火災、帝国劇場の創立に関与、大日本製糖社長となり藤山コンツェルンの基礎をきずいた。関係事業会社多数あり、東京商業会議所会頭、貴族院議員等もつとめた。(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.623)
参考:藤山雷太
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/321.html