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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1918(大正7)年9月2日 (78歳) 田園都市株式会社創立総会 【『渋沢栄一伝記資料』第53巻掲載】

是日、日清生命保険会社内に於て、当会社創立総会開かる。栄一、中野武営・星野錫・服部金太郎・柿沼谷雄等と共に発起人たり。爾後栄一、当会社のため尽力するところ頗る多し。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 3章 商工業 / 13節 土木・築港・土地会社 / 3款 田園都市株式会社 【第53巻 p.359-370】
・『渋沢栄一伝記資料』第53巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/53.html
渋沢栄一伝記資料』第53巻p.364-365には、田園都市株式会社設立の背景が『竜門雑誌』からの転載として次のように紹介されています。

竜門雑誌   第三六五号・第七五―七六頁 大正七年一〇月
田園都市株式会社成立
[中略] 九月十一日発行の中央新聞は、青渊先生談として左の如き記事を掲載せり。
田園都市の計画は我国では今度が最初の試みである。日本は土地の狭い割に人口が急激に増加し、殊にそれが大部分都市に向つて集中する傾向があるが、地震の多い我国では欧米の如く二十階・三十階の家を建てる事が出来ないので、従つて地所も家屋も日を追うて騰貴して行くのは自然の勢で何うにも仕方がないのである。[中略] 倫敦の所謂田園都市のやうな手段を取るより他はないと思ひ、さる大正二年来之れに着手し地を荏原郡に求め、平塚・玉川・馬込・池上・碑衾・駒沢の各村に亘り約四十万坪を選定し、既に三十五・六万坪の買収契約を済ませ、残る所も今秋農家の収穫期を待つて全部買収する事になつてゐる [中略] 交通機関は目下玉川電車並に近く設立される池上電車と交渉して双方から線路を延長して貰はうと思つてゐるが、若し此の交渉が巧く行かない場合には、当方で電車なり乗合自動車なりを設置する覚悟である。それで資金は株式組織で現在のところ三百五十万円ほど集まつたが、追にて五百万円ほどになる積りである、尚此の成績が宜ければ他の都市にも之を企てやうと思つてゐる云々。
(『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.364-365)

1918(大正7)年創立の「田園都市株式会社」は、1922(大正11)年に鉄道部門を分離・独立して子会社「目黒蒲田電鉄」を設立、1928(昭和3)年、その子会社にに吸収合併されました。その後「目黒蒲田電鉄」は1939(昭和14)年と1942(昭和17)年に社名を変更、今日の「東京急行電鉄」に受け継がれています。
参考:東京急行電鉄の沿革
東急電鉄
http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/g02b.html
中野武営(なかの・ぶえい、1848-1918)
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20080815
星野錫(ほしの・しゃく、1854-1938)
実業家(印刷業)。東京印刷社長、東京商業会議所副会頭、衆議院議員などを歴任。
・星野錫翁伝 / 星野錫翁感謝会著 (星野錫翁感謝会, 1935.07)
 〔NACSIS Webcat
 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN14467557
服部金太郎(はっとり・きんたろう、1860-1934)
「東京に生る。時計商。明治二五年本所に精工舎を創立し、国産時計の製造を開始す。昭和2年貴族院議員に勅撰された。東京商業会議所議員、日本工業倶楽部理事、赤十字社委員等公職にも就任した。万延元年(1860)-昭和九年(1934)」
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.620
柿沼谷雄(かきぬま・たにお、1854-1920)
実業家(紡績業)。日本橋区議会議員も勤め、日本橋女学館の創設にもかかわる。嫡子に家督を譲る前は柿沼谷蔵と名乗った。
・柿沼谷雄翁 / 日本橋区教育会編 (日本橋区教育会, 1922.10)
 〔NACSIS Webcat
 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA34833306