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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1920(大正9)年11月28日 (80歳) 馬越恭平寿像除幕 【『渋沢栄一伝記資料』第49巻掲載】

日栄一、馬越恭平寿像除幕式に出席して、祝辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 9章 其他ノ公共事業 / 2節 銅像 / 8款 馬越恭平寿像除幕式 【第49巻 p.222】
・『渋沢栄一伝記資料』第49巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/49.html

馬越恭平(まごし・きょうへい、1844-1933)は明治から昭和初期にかけて活躍した実業家で、大日本麦酒株式会社の社長を務め「ビール王」と呼ばれました。
1920(大正9)年、大日本麦酒株式会社は社長馬越恭平の喜寿を記念して同社構内に銅像を建設し、その除幕式が11月28日に行われています。『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.222によると、渋沢栄一はその除幕式に出席して祝辞を述べたとされていますが、残念ながらその内容は掲載されていません。
馬越と栄一との親交は古く、『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.762-763には、馬越が栄一の供養晩餐会(1931(昭和6)年12月15日、帝国ホテル)で述べた思い出話が「泰徳院殿御葬儀記録」からの転載として紹介されています。

[前略]
  申上げるまでもなく、我国では士農工商と云つて商を一番卑んだ商人と云ふものは利さへ得ればよいものとして、低い地位に置かれて居た、処が今日では商工農士と云ふ風に商人の地位が最も高くなつて来ました、実際実業家の勢力は大したもので、或る意味からは政治家以上である、之は何人の力に依つたのでございませうか、総て青渊先生即ち泰徳院殿の御力に依ると申すを憚からぬ。青渊先生の御徳に就ては私が特に申述るまでもないが、私の記憶に依ると此の実業と云ふ名も、青渊先生によつて広まつたのであります。
  私は前申す様に、青渊先生よりは四歳年下でありますけれども、四十年も相違して居る程な考へで、頗る喧嘩早いのでよく「貴様は気が早くていかん」と叱られましたので、先生の前に出ると、如何な気早の私も、自然に頭が下つて反抗心など聊かも起りませんでした。過日先生が薨去されました時、実業の世界の野依君が訪ねて来て、青渊先生の話をせよと申したので、先生の話は沢山あるが、大日本麦酒会社が今日の盛大を為し、私がその社長で居ることの出来るのも、青渊先生の御蔭である、札幌麦酒・恵比寿麦酒・朝日麦酒三社が競争後その弊を感じて合併した、その時一同は社長には先生がよい、と申してその就任を願つたのでしたが、先生は「社長には馬越君がよい、君でなくてはならん」との御話で、今日まで二十六年間その地位を保つて居るのであります [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.763)

参考:馬越恭平
三井広報委員会|三井史を彩る人々〕
http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html#magoshi
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 麦酒醸造
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/005.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 麦酒醸造業