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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1892(明治25)年12月11日 (52歳) 暴漢の襲撃 【『渋沢栄一伝記資料』第29巻掲載】

日栄一、伊達宗城の病を見舞はんとして馬車にて外出の途上、暴漢の襲撃を受けたるも、馬の傷付きたるのみにて、事なきを得たり。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 3部 身辺 / 9章 雑資料 / 1節 遭難 【第29巻 p.625-632】
・『渋沢栄一伝記資料』第29巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/29.html
1892(明治25)年12月11日、渋沢栄一は馬車で外出した際に暴漢の襲撃を受け、馬車馬の足を傷つけられましたが、栄一本人には危害は及びませんでした。栄一は後に、自著『実験論語処世談』(実業之世界社, 1922)において、その際のことを回想して次のように語っています。

  ○謙譲の徳と不動の信念
    ◎二名の暴漢に襲はる
[前略] 午後三時頃、まだ自働車の無い時代だつたから自用の二頭立馬車を駆つて兜町の事務所を出で、直ぐ前の兜橋を渡り江戸橋の通りと四日市町の通りとの交叉点の処へ来懸ると、突然物陰から二人の暴漢が抜刀で現れ、馬車馬の足を払つた事がある[。]私は何だか馬車が一寸佇止つたやうに思つたのみで、刺客に襲はれたなぞとも心付かなかつた中に、馭者が馬に鞭を当てゝ極力走らしたものだから、一頭は毫も傷を受けず、傷つけられた一頭も亦能く一緒に走つたので、難無く其場を脱し、[中略] 察するに壮士が若干かの金銭を与へられて、渋沢は怪しからん奴だから斬つてしまへとか何んとか煽動され、貰つた金銭の手前放置つてもおけず馬車馬の足を払つたに過ぎぬのだから、帰途に又危険なぞのあるべき筈は無いと、いろいろ親切に言ふてくれた人々の好意を強ひて謝し、護衛なぞ附けずに帰宅したのだが、果して私の考へた通り何事も無く無事で宅まで帰つたのである。然しこの時に私が斯く敢然たる態度に出で、毫も恐るゝ処の無かつたのは、自ら省みても些か疚しい所が無かつたからである。 [中略]
 この二人の暴漢は、共に当時の所謂壮士で、[中略] 当時喧しかつた東京市水道鉄管事件に関し、私が外国製の使用を主張せるに対し、内国で之を製造し納入しやうと企てた者があつて、其後聞知せる処に拠れば、この一派の人々は恰も私が外国商人よりコムミツシヨンでも取つて、外国製の使用を主張するかの如く言ひ触らし、渋沢は売国奴であるからヤツツケロといふやうな過激の言を以て、[中略] 三十円宛を与へたとかで、その金銭の手前、二人は那的人嚇かしをしたものなさうである。 [中略]
 私が若し外国人よリコムミツシヨンでも取る目的で、斯な意見を主張したものならば、確に私は売国奴であるに相違無いが、毫も爾んな事は無く、水道を一刻も早く完成させたいといふ無私の精神から之を主張したのだから、私としては些かたりとて疚しい所のあらう筈が無い。然し若し愈々私の意見が通る事になれば、内国製を納入しやうと目論んでゐたものは、之が為め儲からぬ事になる。その為め壮士を使嗾して私を嚇かしたものらしかつたのだ。○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.627-628)