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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1919(大正8)年1月20日 (58歳) 聖徳太子一千三百年御忌奉賛会 【『渋沢栄一伝記資料』第49巻掲載】

是日、日本倶楽部に於て、当会理事会開かれ、栄一出席す。二月二日、南葵文庫大礼記念館に於て、当会講演会催され、栄一講演をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 9章 其他ノ公共事業 / 1節 記念事業 / 3款 聖徳太子一千三百年御忌奉賛会 【第49巻 p.34】
・『渋沢栄一伝記資料』第49巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/49.html

渋沢栄一伝記資料』第49巻p.34には、1919(大正8)年1月20日日本倶楽部で開催された聖徳太子一千三百年御忌奉賛会の理事会に渋沢栄一が出席したこと、また2月1日と2日に南葵文庫大礼記念館で講演会が開催され、2日に栄一が「太子と産業」について講演を行ったことなどが『竜門雑誌』等からの引用により紹介されています。当日の講演内容については「栄一ノ演説筆記ヲ欠ク」との注釈があり、残念ながら『渋沢栄一伝記資料』には掲載されていません。
聖徳太子一千三百年御忌奉賛会とは、徳太子没後1300年を迎える1921(大正10)年に向けて1916(大正5)年に設立された団体です。渋沢栄一は1918(大正7)年に会長に推されましたが辞退して副会長に就任、会長には徳川頼倫(とくがわ・よりみち、1872-1925)を推薦しています。同会設立の経緯、また栄一が協力を承諾することになった経緯については『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.25-34に紹介されています。

[前略] 子爵の同会に関係したのは、大正四年黒板勝美氏の懇談によるものであつた。当時の事情は後に同会主事となつた山岡超舟氏の談話に明かである。
 『大正四年春に至つて、黒板勝美博士は経営の具体案を提げて渋沢子爵を尋ね、其援助を乞はれたのでありますが、子爵は水戸学派の流れを汲まれた人で、聖徳太子の御事蹟に反感を抱いて居られました。徳川時代の漢学者は、聖徳太子が政治を執られるに当り、崇峻天皇を殺し奉つた所の蘇我馬子と、相共に事業をおやりになつた事を非難したのでありますが、渋沢子爵は此説を学んで居られたのであります。黒板博士は此説の誤れる事を陳べ、子爵は自分の考の非なる事を悟られました。茲に於て子爵も会の為めに御尽力を承諾なされました。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.32-33。白石喜太郎著『渋沢栄一翁』p.730-732(1933.12)より)