情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 明治4年辛未1月21日[西暦:1871年3月11日] (30歳) 静岡藩に世禄返上 【『渋沢栄一伝記資料』第3巻掲載】

静岡藩に世禄の返上を願出づ。二月十三日許さる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年−明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 4章 民部大蔵両省仕官時代 【第3巻 p.19-20】
・『渋沢栄一伝記資料』第3巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/03.html
渋沢栄一明治4年1月21日、静岡藩に対し、藩からの世禄(せいろく=代々その家の継承者が受ける世襲の家禄)を返上したいと願い出ました。
命を受けて東京で奉職して以来、原籍のある静岡藩邸からも扶持(ふち=俸禄。職務に対する報酬の米や金銭)を頂戴しているが、既に職務に応じた官禄が下賜されているので、明治政府に奉職中は静岡藩からの世扶持を返上したい、との趣旨の栄一の願出に、静岡藩は奇特な申出として2月13日付で承認通達を下しています。

去々己巳十一月五日租税正拝 命東京於て奉職以後従来原籍に属し候御扶持方之義も当地御藩邸より頂戴いたし居候得共、倩慎思仕候処既に其職務ニ応し相当之官禄下賜候上ハ縦令世禄之筋ニ候とも聊奉事之廉も無之筋安甘受仕候而は今日之御世態に奉対恐悚之至ニ奉存候間、何卒奉職中ハ右世扶持返上仕度此段御允許之程奉懇願候也
   辛未正月      渋沢篤太郎
(『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.19)

明治4年の廃藩以降は、各藩が負担していた華・士族の秩禄(ちつろく=官等に応じた家禄、賞典禄)は全額が国の負担となりました。政府は負担軽減策として秩禄返上希望者に対する公債交付制度を1873年(明治6)12月に制定しています。
禄制改革について、栄一が井上馨とともに財政整理の一環として検討し、1873(明治6)年4月にはほぼその概要が決定していたことが『青渊先生伝初稿』からの転載として紹介されています。

青渊先生伝初稿 第七章三・第四五―四七頁〔大正八―一二年〕
廃藩と共に士人の常職を解きたれば、彼等をして生活の安定を得せしめざるべからず、又華士族・平民に授けたる家禄・賞典禄の米給を止めて金禄となすことも財政整理の上の急務なりき。此に於て先生は并上と共に其方法を研究し、明治六年十二月遂に秩禄公債証書の制定あり、同九年八月金禄公債証書の制定あり、皆先生辞職後に決行せられしものなれば、今細説せず。然れども其端緒が先生等によりて開かれしことは注意せざるべからず、明治六年四月二日先生が井上と連署して在米の大蔵少輔吉田清成に寄せたる書翰に、「禄制の事は種々廟議ありて、先づ大概は決定せり、されど確定施行するまでには尚時日を要すべし」といへるにて当時既に成案を得てほゞ決定したりしことを知るべきなり。
(『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.699-700)

秩禄制度は1876(明治9)年に至り、公債交付を代償に全廃となりました。
参考:秩禄公債証書見本
国立公文書館
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/document/chitsuroku_bond.html
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0100000000/0117000000 (2012.02.09修正)