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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1910(明治43)年1月22日 (69歳) 東京高等商業学校で語った渡米中の所感 【『渋沢栄一伝記資料』第44巻掲載】

日栄一、当校に於て生徒に対し、渡米中の所感を述ぶ。同夕、上野精養軒に於て開かれたる当校職員並に同窓会主催の渋沢・神田両男爵帰国歓迎晩餐会に出席して演説をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 1節 実業教育[承前] / 1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会 【第44巻 p.141-142】
・『渋沢栄一伝記資料』第44巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/44.html

一月二十二日 曇 寒
○上略 午後三時高等商業学校ニ抵リ、学生一同ノ企望ニ応シテ米国旅行中ノ感想ヲ講演ス、聴衆一千余名、満堂余地ナキニ至ル、校長沢柳氏先ツ紹介ノ詞アリ、夫ヨリ一時間余ノ長演説ヲ為ス、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.141。「渋沢栄一日記 明治四三年」より)

渡米実業団団長として1909(明治42)年8月に日本を発ち、9月から11月にかけて米国各地を訪問した渋沢栄一は、帰国翌年の1月22日、東京高等商業学校(一橋大学の前身)で講演を行い、その後上野精養軒での晩餐会に出席しました。晩餐会席上で栄一は、教育の問題として現地では「今日の商業家には語学がすこぶる必要である」ということと、更に「学問負けをしないこと」の二点を感じたと述べています。

[前略] 亜米利加の人は、己が学んだ学問は能く自分の腹の中に咀嚼し、且つ同化して、之を日常万般の上に活用して居る事が、明かに認めらるゝのでありますが、翻つて我が国の有様を観ますれば、我が国の学者は、己が学問を能く咀嚼し、同化する事が出来ない為めか、如何にも学問が身体に別にクツツイて居るかの如くに感じられ、従つて学問の活用はおろか、却て己が学問が己れの邪魔に成り、謂はゞ己が学問に力負けをする様な傾きがありはせぬかと思はれます。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.141-142)

この日の講演内容は『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.426-430に、晩餐会での挨拶文は第32巻p.423および第44巻p.141-142に、それぞれ『竜門雑誌』からの転載として紹介されています。
参考:『民間経済外交の一断面』 - 明治・大正期の商工会議所の活動史(第2回) / 石井裕
〔ワシントン日本商工会ホームページ〕
http://www.jcaw.org/news/story/2006/200602/ishii.html