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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1901(明治34)年1月29日 (60歳) 竜門社監督尾高惇忠、他界 【『渋沢栄一伝記資料』第26巻掲載】

是より先、是月二日、当社監督名誉社員尾高惇忠卒す。仍つて是日銀行集会所に於て当社主催の追悼会開かれ、栄一之に出席し追悼演説をなす。更に三月の月次会に出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 3章 道徳・宗教 / 5節 修養団体 / 1款 竜門社 【第26巻 p.271-280】
・『渋沢栄一伝記資料』第26巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/26.html

渋沢栄一伝記資料』第26巻p.271には1901(明治34)年1月29日に竜門社の主催で尾高の追悼会が開催され、渋沢栄一が追悼演説をしたことが紹介されています。しかしその内容については「栄一ノ演説筆記ヲ欠ク」(p.275)との注記があり、『伝記資料』中には掲載されていません。
尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう;あつただ、1830-1901。通称は新五郎、号は藍香:らんこう)は、「幕末は攘夷に奔走。維新後、民部省に出仕、富岡製糸場長、東京養育院書記、第一国立銀行盛岡、秋田などの支店長を歴任。青淵先生の従兄、学問の師であり、「竜門社」の名づけ親でもある」人物です。(『竜門社の歩み : 青淵先生、想い続けて120年 : 企画展図録』(渋沢史料館, 2006.10)p.2)
渋沢栄一伝記資料』第1巻には、栄一が尾高惇忠について語った内容が、『竜門雑誌』第306号(1913.11)p.30-34からの転載として以下のように紹介されています。

 尾高惇忠と云ふのは、[中略] 通称を新五郎と云ひ藍香と号した、この人は私の従兄であり、私の先輩であり、私の師匠で且つ義兄である。[中略] 藍香は非常の天才で、七歳の頃四書の句読を受くる時から夙く頴敏の誉を得同時に書法を伯舅渋沢氏に学び、更に遊歴儒者として此村に来れる菊地菊城に就て経義を講じたのみで、殆んど独学でやつたのであるが、却々の学者として近郷に隠れなき声名を博してゐた。
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.65-66)