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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1926(大正15)年2月2日 (85歳) 東洋生命保険社長・木村雄次 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

日栄一、当会社社長木村雄次の来訪に接し、当会社の近況を聞く。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 1章 金融 / 4節 保険 / 1款 東洋生命保険株式会社 【第51巻 p.290-293】
・『渋沢栄一伝記資料』第51巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/51.html

東洋生命保険とは、共慶生命保険(日本および韓国各地を拠点に1900(明治33)年設立)を前身とする保険会社で、1909(明治42)年に渋沢栄一の女婿である尾高次郎(おだか・じろう、1866-1920。尾高惇忠の次男)が社長に就任、同時に栄一も同社株主となり、その経営に関与しています。
木村雄次(1874-1943)は第一銀行京城支店副支配人を経て韓国銀行の理事を務めた人物で、尾高次郎の病没後、1923(大正12)年に栄一と 佐々木雄之助 佐々木勇之助の推薦で専務取締役に、1925(大正14)年には社長に就任しています。(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.608「宛名人名録」より)
渋沢栄一伝記資料』第51巻には、木村による栄一と生命保険業に関する著述が紹介されています。

竜門雑誌  第四八一号・第一一六―一一九頁 昭和三年一〇月
    青渊先生と生命保険
                      木村雄次
[前略] 生命保険業の精神を此の制度が西洋に発達した歴史に求めたならば、それは同業組合員の幸福とか相互扶助とか言ふ点に求むべきであるかも知れないけれども、もつと深く此の相互扶助の精神に立ち入つて、私共が東洋人的に生命保険なるものゝ本質を解釈して見るときには、歴史的意味をもつ永遠の存在である所の家を斉へる[ととのえる]と言ふ精神を認むる事なしに、生命保険業は成立たないと言ひ得ると思ふ。何となれば生命保険なる制度は、己の家を時間的にやがては道徳的に悠久の存在たらしむる一つの物質的手段と云ふべきである。自分が自分の父母より受け継いだ善きもの美しきものを保護し維持して、更に之れを子孫をしていやつぎつぎに受け継がせる、即ち時間的に歴史的に家を斉へる為めの生命保険は物質的手段に過ぎないからである。だから此の精神なき人にとつては、生命保険ほど厄介なものはない事になる。[中略]
 先生は嘗て我社の従業員に演説して「私は自分の踏んで参つた長い間の経験に照らして見ても、これは矢張り忠恕の道、犠牲の精神、縁の下の力持ち、又は己の欲せざる所人に施す勿れといふやうな従来の東洋道徳に則つて、この精神を何処までも社会全体に行き亘らせること以外に、方法はなからうと確信して疑はぬ」と言はれたが、生命保険なるものが、修身斉家を精神とする人々の多数の寄合によつて出来上るものならば、生命保険業、即ち生命保険会社を経営するといふ事の根本精神は、此の多数の人々の世話をして、其の人達の幸福を計る為めに奉公すると言ふ事の外にあり得ようがない。即ち生命保険会社の経営者程[、]先生の所謂「縁の下の力持ち」をやる精神を要するものはない、「国人と交はれば信に止る」と言ふが、もし日本の生命保険業の経営者が悉く、縁の下の力持ちたる事に甘んじ、国人と交はるに信を以てすることを根本精神とするならば、それは生命保険業経営の始であつて終でなければならぬ。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.304-305)

参考:生命保険会社変遷図 (PDF)
〔生命保険会社について - (社)生命保険協会〕
http://www.seiho.or.jp/seiho/transition/pdf/hensenzu.pdf
この変遷図によれば、東洋生命保険は1936(昭和11)年に帝国生命保険に包括移転され解散、その後、帝国生命保険も1948(昭和23)年に朝日生命保険に包括移転され解散しています。

更新履歴

2010.05.21:「佐々木雄之助」を「佐々木勇之助」に修正