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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1889(明治22)年3月11日 (49歳) 憲法発布祝賀夜会、鹿鳴館で開催 【『渋沢栄一伝記資料』第28巻掲載】

是年二月十一日憲法発布せらる。栄一、川田小一郎森岡昌純・西村虎四郎・小野義真等と相謀りて、是日その祝賀夜会を鹿鳴館に開催す。栄一発起人を代表して祝辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 8章 其他ノ公共事業 / 2節 祝賀会・歓迎会・送別会 / 1款 憲法発布祝賀夜会 【第28巻 p.556-624】
・『渋沢栄一伝記資料』第28巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/28.html

明治二十二年三月十一日曇天、夜に入り雨、当日午後四時先づ亭主方一同鹿鳴館へ参集す、午後五時三十分晩餐の招客追々来場せられたるに付、午後六時亭主方一同来賓を誘引して祝宴を開く、宴酣にして渋沢栄一は亭主方一同に代りて祝詞を呈し、伯爵黒田清隆君答辞を述べられ、午後七時三十分晩餐を終る、午後八時夜会の招客追々来場せらる、其方々は小松宮北白川宮両殿下を始め、親任官・各省高等官・各国公使、其他内外の紳士淑女にて、其数無慮千人なり、午後九時三十分舞踏室に於て舞踏を催す事十数番、午後十一時に至り食堂を開き来賓に立食を供す、食後又更に数番の舞踏を催し、主客各歓を尽し、一同退散したるは翌十二日午前二時なり
(『渋沢栄一伝記資料』第28巻p.558掲載、憲法発布祝賀夜会委員編『夜会録事』(1889.04)より。原文のカタカナ表記をひらがなに変換)

1889(明治22)年3月11日、鹿鳴館憲法発布を祝う夜会が盛大に開催されました。宴もたけなわとなった頃、祝賀夜会発起人の一員であった渋沢栄一は、招待側を代表して挨拶を述べています。
渋沢栄一伝記資料』第28巻p.557-567には『夜会録事』からの転載として、夜会の概況、亭主方のメンバー、招待客、案内状、装飾その他の手配、料理、奏楽と煙火(花火)、委員、スタッフ、経費などが詳細に紹介されています。
また、『渋沢栄一伝記資料』別巻5には、栄一と穂積歌子(ほづみ・うたこ、1863-1932。栄一の長女)が、第15回雨夜譚会(1927(昭和2)年11月15日開催)で鹿鳴館について語った内容が、『雨夜譚会談話筆記』からの転載として次のように紹介されています。

    一、所謂鹿鳴館時代に就て
先生。 鹿鳴館は伊藤(博文)さんが専ら拵へたものです。
穂積母堂。 出来たのは何時頃で御座いませう。私は初めての夜会に行つた事を覚えて居ります。
先生。 要するに日本の制度を欧米化する事にあつたが、それには、婦人も共に交際社会へ出して風俗を西洋式にしようと云ふ目的もあつた。
[中略]
先生。 鹿鳴館は欧風化の実行場所で、舞踏会も盛んにやつた。そして色々な噂を立てられて遂に解散になつて仕舞つた。
穂積母堂。 それに就て私から少し弁解を致して置きたいと思ひます。舞踏会と云つても、今のとは違つて規則が中々厳しく、男子の方はエンビフクでなければならず、令嬢や若い婦人は監督者が附かなければ出る事が出来ませんでした。けれども伊藤さんが御承知の様な方だつたもので御座いましたから……。それでも噂程では御座いませんでした事は私が保証致します。或る御婦人などは色々な評判を立てられましたが、之れは全くの捏造だつたので御座います。
先生。 さうだらう。何でも鹿鳴館に対しては三浦梧楼とか、鳥尾小弥太等の軍人連中が大変反対したものだから。
[中略]
先生。 鹿鳴館が悪いとばかりは思はない。欧風化は必要だと思つた。併し皆が良いとは云はない。要するに、一概に善し悪しは云へません。
[中略]
増田。 女子のクラブとするのが鹿鳴館の目的で御座いましたか?
穂積母堂。 いゝえ、女子ばかりでなく男子も女子も共に寄る社交機関で御座いました。天長節とか云つた様な時の夜会の為めに使つて居つたので御座います。
先生。 女子教育は女子教育奨励会でやつて居つた。そして鹿鳴館は女子の舞踏の場所にも使用されて居つたと云ふに過ぎません。
渡辺。 鹿鳴館は欧化主義が目的であつたと承りましたが、日本が条約の改正をするに其方便として、政略的に急に欧化する必要があつたと聞いて居りますが、左様云ふ意味も御座いましたか?
先生。 さう云ふこともあつた。条約改正には、実際も之れに伴はねばならぬと云ふに在つた。
敬三。 喜賓会と云ふは外国人の案内をする事が目的だつたので御座いますか?
先生。 さうです。今のツーリスト・ビューローの前身で、鹿鳴館とは全然目的が違ひます。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻5 p.628-629)

参考:鹿鳴館
〔写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/scenery/data/186/index.html