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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1882(明治15)年3月18日 (42歳) 東京電灯会社創立願を提出 【『渋沢栄一伝記資料』第13巻掲載】

是より先、工部大学学生藤岡市助の勧説により、矢嶋作郎・原六郎・大倉喜八郎外三名は我が国に於て初めて電灯供給事業を経営せんとす。栄一懇請されて発起人となり創立に助力す。是日会社創立願を東京府知事松田道之並に内務卿山田顕義に提出せり。然るに大倉喜八郎・横山孫一郎等他に弧光灯の計画を進め居たれば、之と合同協約して同年十二月十四日再び資本金二十万円なる東京電灯会社設立を出願す。翌年二月十六日認許を得、同十九年七月五日に至りて開業す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 22節 電気 / 1款 東京電灯株式会社 【第13巻 p.5-11】
・『渋沢栄一伝記資料』第13巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/13.html
東京電灯会社創立に際し、渋沢栄一は懇請されて発起人となりました。『渋沢栄一伝記資料』第13巻p.5-11には、この日に提出された会社創立願や日本への電灯供給事業導入の経緯などが、さまざまな文献から紹介されています。

  ○今昔の感に堪へぬ瓦斯と電気
    三、一基の電灯が衆目を驚かす
[前略] 私[渋沢栄一]は電気事業に関しては瓦斯事業の様に密接な関係は有して居らぬが、併し日本最初の電気会社である東京電灯会社の創立にも携はり、其後広島電気、東京水力電気其他の電気会社創立にも関係したのであるから、満更縁故がない訳でもない。詳しい事は知らぬが、米国に於いて電灯の発明されたのは明治十年前後の事であつて、それが漸次世界の文明国に行はれる様になり、外国人によつて日本にも之れが伝へられた。それで私共も是非此の文明の新らしい利器を日本にも採用したいと考へ、大倉喜八郎氏や其他の人々とも相談したが、会社を組織して此の事業を営むにしても、第一に電気灯といふものは何ういふものであるかを一般に知らしめなければ、株式の応募者もなからうし、又需要家を得る事も困難であるから、電灯の価値を知らしめるために、銀座通りの大倉組の前の街灯に千燭光であつたか二千燭光であつたか、兎も角非常に明るい弧光灯アークを点じて謂はゞ実物宣伝を試みたのである。それが丁度明治十六年頃の事である。電気事業の計画といつても、其頃は今日のやうに盛んに動力に利用する事などは考へてゐなかつたので、専ら電気灯としての需要を喚起せんとするにあつたことは言ふまでもない。処が何しろ洋灯ランプでさへ全国的に行亘つて居らぬ時代であるし、瓦斯事業が漸く民業に移つたばかりの頃であるから、東京市民の其の明るいのに肝を潰し、之れが非常な評判となつて毎晩見物人が群集するといふ有様であつた。今から考へれば全然嘘の様に思はれるだらうが、之れが当時に於ける実状であつたのである。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第13巻p.5-6掲載、『青淵回顧録 上巻』(青淵回顧録刊行会, 1927.08)より)

なお、『渋沢栄一伝記資料』別巻4「宛名人名録」には、この綱文に登場する人物のうち、藤岡、矢嶋(矢島作郎)、山田を除く下記4名の略歴が掲載されています。

  • 大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)
    「越後新発田千之助の三男。慶応三年銃砲店を開いたのを初めとして、明治六年には大倉組商会を起し、輸出入業、土木・鉱山等の事業に従い、大正七年大倉商事株式会社に発展した。関係会社頗る多く、また、明治三一年開設した大倉商業学校は、大正八年には高等商業学校に昇格した。大正六年には大倉集古館を設けた。男爵。天保八年(一八三七) - 昭和三年(一九二八)」(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.604)
     
  • 原六郎(はら・ろくろう、1842-1933)
    但馬国進藤六右衛門の六男。先代丈右衛門の養子となり家を嗣ぐ。大村益次郎に砲術を学び、討幕の戦に従軍、維新後、米・英に留学し、帰国して実業界に入る。東京貯蔵銀行、第百銀行を創立してその頭取となったほか、横浜正金銀行、帝国商業銀行、富士製紙、横浜船渠、帝国ホテル、東洋汽船、東武鉄道、猪苗代水力電気等の重役に就任した。弘化元年(一八四四)[ママ] - 昭和八年(一九三三)」(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.621-22)
     
  • 松田道之(まつだ・みちゆき、1839-1882)
    鳥取藩士久保居明の二男。字は正忠、俊蔵、八之進正人と改めた。広瀬淡窓の門に学ぶ。維新後、京都府権判事より明治四年大津県令に進み、同八年内務大丞、内務大書記官を経て、同一二年東京府知事となる。天保一〇年(一八三九) - 明治一五年(一八八二)」(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.625)
     
  • 横山孫一郎(よこやま・まごいちろう、1848-1911)
    茨城県彦兵衛の長男。幼時より語学を好み、矢野二郎等と共に翻訳局の創設につとめた。明治五年欧洲に渡り、スイスに滞留して商業制度組織を研究して帰国し、後、大倉組の創立に関与してロンドン支店設置等、対外貿易につとめた。帝国ホテル、国光生命、大日本ホテル等の重役をもつとめた。嘉永元年(一八四八) - 明治四四年(一九一一)」(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.630)
     

参考:日本のエジソンの発明人生 - 藤岡市助ものがたり
TOSHIBA SPIRIT〕
http://kagakukan.toshiba.co.jp/dna/spirit/roots/ichisuke/index.html
山田顕義
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/211.html
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 電気 A (東京電灯会社)
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/033.html
渋沢栄一関連会社社名変遷図 電気A