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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1910(明治43)年4月9日 (70歳) 渡米実業団第一回記念会 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日、渡米実業団第一回記念会、名古屋市に開催せらる。栄一出席す。爾後毎年記念会開催され栄一出席す。特に大正六年九月二十四日渡米実業団員中物故者追悼法会を上野寛永寺に営み、栄一弔辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.461-485】
・『渋沢栄一伝記資料』第32巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/32.html

1909(明治42)年、北米実業家からの招待を受け、渋沢栄一は「渡米実業団」団長として50余名の実業家達と共に渡米しました。8月19日に横浜を出港、現地では専用列車を仕立てて53都市を訪問し、11月30日にサンフランシスコを出港、12月17日に横浜に帰着するまでの約4ヶ月間、一行は各地で視察や現地で実業家等との会合を精力的にこなしています。
帰国から約3ヶ月半が経過した1910(明治43)年4月9日、渡米実業団第一回記念会(渡米実業団第一回紀念会)が名古屋で開催され、宴会や写真撮影、残務報告などが行われ、団員たちは回想談に花を咲かせました。旧団員が参集して旧交を温めるこの記念会はその後も恒例となり、関東大震災で中断されるまでほぼ毎年12月、主に東京で開催されています。1912(大正元)年12月17日に開催された第三回記念会において、栄一は往時を回顧して次のように語っています。

[前略] 此渡米実業団は、米国太平洋沿岸商業会議所より我商業会議所に対して招待したるに起原したるものなりしが、当時予は会議所に何等の関係を有せざりしが、外務当局より、又茲に列席の中野氏其他実業家代表的の人々より、是非にとの勧誘を受け又米国側よりも電報を以て一行に加はる様と勧誘を受け、遂に意を決して老躯を提して其一員に加はりしが、幸に団員諸君の愛国心より惹て予を助けられたる結果、不肖ながら団長の位置を辱めずして無事使命を終りたるは、此機に於て深く感謝する処なり
渡米実業団員諸君の始終一致協同せられたるは、予の常に賞讚し且感謝する処にして、此一致無かりせば、到底所期の効果を揚ぐる事能はざりしなり [中略]
団員五十余名が、終始一致の行動を以て全旅行を終りたるを追懐して敬服の至に堪へず、蓋し団員の一致は単に彼地に在る邦人の賞讚するのみならず、米国人に於ても、斉しく賞讚する処ならんと思考す、願はくは団員御互は彼地旅行中に於けると等しく、将来も協同一致して益日米両国間親善の連鎖たらんことを希望す、云々 [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.471、『竜門雑誌』第296号(1913.01)p.68-70より)

また、渡米から8年後の1917(大正6)年9月24日には、他界した団員の法要が行われたことが、『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.478-479に『竜門雑誌』第353号(1917.10)p.121-122からの転載として次のように紹介されています。

○旧渡米実業団員逝去諸氏追悼会 [前略] 青渊先生及び中野武営氏並に旧団員諸氏主催となり、去る九月二十四日上野寛永寺に於て各故人の遺族を招待して各故人追悼法会を営まれたるが、[中略]
因に右団員諸氏中逝去せられたる人々は
西村治兵衛(京都) 原林之助(東京) 原竜太(横浜) 水野幸吉(東京) 藤江永孝(京都) 左右田金作(横浜) 佐竹作太郎(東京) 岩本栄之助(大阪) 土居通夫(大阪)
の九氏にして、尚ほ当日旧団員にして出席せられたる人は、青渊先生及同夫人、中野・日比谷・大橋等諸氏二十二名にして、故人の遺族は拾名なりきと云ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.478-479)

渡米実業団一周年記念会 名古屋にて (明治43年4月9日)

渡米実業団一周年記念会 名古屋にて (明治43年4月9日)
渋沢栄一伝記資料』別巻第10 p.111掲載