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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1914(大正3)年5月25日 (74歳) 渋沢栄一の中国訪問 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

日栄一、北京を発して南口に赴き、明の十三陵に詣で、二十六日八達嶺に到り、万里長城を一覧し北京に帰る。二十七日天津に到る。この夕発熱臥床す。二十八日病気は軽快せるも予定を変更、孔子廟参拝を中止し直に帰朝するに決す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 2款 中国行 【第32巻 p.549-558】
・『渋沢栄一伝記資料』第32巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/32.html

1913(大正2)年11月、渋沢栄一中華民国大統領袁世凱(えんせいがい、1859-1916。中国の軍人・政治家)より、中日実業会社について親しく意見交換したいとの招きを受けました。この時、栄一の風邪のために訪中は実現しませんでしたが、翌1914(大正3)年5月、栄一はあらためて三男の渋沢武之助(しぶさわ・たけのすけ、1886-1946。実業家)、明石照男(あかし・てるお、1881-1956。実業家、栄一の女婿)、馬越恭平(まごし・きょうへい、1844-1933。実業家)等と共に13名で中国を訪れています。
この訪中に先立ち「渋沢が利権獲得のため中国に赴く」と報じる新聞もあり、栄一はそれに反論、旅行の主目的は「漫遊である」として、動機について次のように語っています。

[前略] 私が支那漫遊の希望を抱いて居つたのは、一朝一夕のことではない。[中略] 浅薄ながらも、幼少の時より漢学を好み、詩文を作るやうな事もあり、四書・五経・八大家文・古文真宝等の或部分は暗じて居るので、彼の洞庭湖・西湖・赤壁抔も、詩文の上で、斯うでもあらうかと想像して見ることもあり、一度は其実地を見たいと思つて居つた。又、[中略] 孔孟の書は一身の憲法と心得て居たので [中略] 是非一度は曲阜にある聖廟に参拝したいと思つて居つた [中略] 処が昨年の春偶然中国興業会社を組織することゝなつた。是れは私が昨年の春来遊した孫逸仙氏 [=孫文] と相談して設立したのであるが、其後彼が第二革命を起すに及んで、此の会社は支那政府より多少の疑惑を受け、或は水泡に帰するの恐なき能はざる情況であつた。然し是れは非常の誤解であつて、私が中国興業会社を創立したのは、単に日支間の実業の聯絡と其発展を期したるまでにして、固より経済に国境のあるべき筈なく、況や南北抔は問ふ所でなかつた、去りながら是等の疑は何とかして解きたいものであると思うて居つた。其後支那政府の大官中にも、両国合弁会社の設立に就いて、私の北京旅行を望まれた人もあつたので、[中略] 漸く時を得て本年五月二日に出発して、多年の望を果すことになつた訳であります。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.605-606掲載、『竜門雑誌』第315号(1914.08)より)

一行は5月6日に上海に上陸、現地では有力実業家の集まり「商務総会」に迎えられ、各地での観光のほか、蘇州では養蚕業を、大冶では鉱山を見学し、漢口、漢陽、武昌を経て、北京には一週間滞在し、多くの要人と会談、袁世凱とも会見しています。
5月25日には北京を出て、その後も観光を続けましたが、27日に栄一は体調を崩したこともあり孔子廟参拝を断念、一行は28日に帰国の途につきました。

[前略] 天津に着するや、直ちに都督を訪ひ、警察署長を訪ね、領事館に行くといふ風で、東奔西走してゐる間に竟に病を獲、熱を計ると大分高いといふ訳で、一行の人々も心配した。殊に曩には水野参事官が急病で仆れ[たお・れ=他界する]、次いで二十七日の晩には、北京出発の際停車場まで送つて来られた山座公使が、心臓麻痺で仆れるといふ始末で、一層一行の神経を悩ました。馬越君などは非常に心配して、どんな事が起るかも知れぬから、早く旅行をやめて帰朝しやうと云ひ出したので、終に已むを得ず旅程を変更して、一先づ引上げる事になつたのである。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.605掲載、『実業之世界』第11巻第13号(1914.07)より)

中国特命全権公使山座円次郎(やまざ・えんじろう、1866-1914)と水野幸吉(みずの・こうきち、1873-1914)の相次ぐ他界を悼み、栄一は後に次のように述べています。

[前略] 山座・水野二氏の死去は誠に残念なり、山座氏の死は天津にて知りたるも、水野氏の死は在京 [北京] 中にて、殊に氏は十九日小田切氏 [=小田切万寿之助(おだぎり・ますのすけ、1868‐1934。外交官、銀行家)] が余の為め開きたる午餐会席上より腹痛の為帰邸せる儘回復せず、其儘死亡したれば殊に気の毒千万に堪へず、氏は往年余等が米国視察の際紐育総領事として、日本に迄も同行帰朝せる程に一行に対して便宜を与へ呉れたる事あり、対支外交の為め、氏の死去は邦家にとり遺憾の至りなり」
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.567掲載、『時事新報』第11048号(1914.06.02)「渋沢男の談話(大連五月三十一日午後発)」より)

渋沢栄一伝記資料』第32巻p.491-615には、この中国訪問について、栄一本人の日記のほか、栄一の秘書役である増田明六による日記など、種々の資料により仔細に紹介されています。また、1913(大正2)年11月の袁世凱からの招待については『渋沢栄一伝記資料』第54巻p.547-550に掲載されています。