情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1921(大正10)年9月14日(水) (81歳) 渋沢栄一、ワシントン軍縮会議視察について日米関係委員会員に相談 【『渋沢栄一伝記資料』第33巻掲載】

是年十一月、アメリカ合衆国ワシントンに於て軍縮会議の開催せらるるを機とし、栄一国民の一員としてその実況を視察し、且つは日米親善に尽さん為め渡米の意あり。仍つて是日、東京銀行集会所に日米関係委員会の会員中数名の集会を請ひ、之を諮る。右により栄一の他に同会代表者三・四名の渡米を要望し、二十一日代表者として添田寿一[・]頭本元貞・堀越善重郎の三名の推薦発表さる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 4款 第四回米国行 【第33巻 p.155-166】

1921(大正10)年10月から12月、渋沢栄一はワシントン軍縮会議視察を兼ねて米国を訪れています。この時、栄一と同行したのは日米関係委員会より添田寿一(そえだ・じゅいち、1864-1929)、頭本元貞(ずもと・もとさだ、1863-1943)、堀越善重郎(ほりこし・ぜんじゅうろう、1863-1936)、さらには栄一の随員として増田明六(ますだ・めいろく、1873-1929)、小畑久五郎(おばた・きゅうごろう、?-1942)、穂坂与明(医学博士)、矢板玄蕃(やいた・げんば)の7人でした。
渋沢栄一はこのときの渡米動機を『竜門雑誌』第402号(1921.11)p.36-46の中で、1909(明治42)年に団長として参加した渡米実業団のことにも触れつつ、次のように語っています。

    ○青渊先生渡米紀行(一)
                  随行員 増田明六
      青渊先生渡米の目的(同先生談話)
 今回私が老躯を提げて渡米を決心するに至つたのは、一には多年憂慮せる加州の排日問題が昨年の国民一般投票以来益々不良に傾きたるに付き、之を緩和せんが為め、又一には昨年東京へ来訪せられし桑港及紐育の諸名士への答礼を兼ねて、向後夫等の人々と日米の問題に付て、提携協議する事の打合はせを為さんが為であるが、恰も来る十一月には太平洋会議が、華盛頓に於て開かれるので、此機会に於て国民の一員として其実況の視察を兼ねて、此十月を以て渡米する次第である。[中略]
 回顧すれば、日米間の国交は日露戦争頃迄は親善を極め、相互の情誼も敦かつたのであるが、同戦争中より排日熱漸く高まり、明治三十八九年頃に学童問題起り、所謂紳士協約が締結されて、移民の渡航を制限するに至つたが、排日の気勢は毫も弛まなかつた。明治四十二年の秋、私は実業団の一行五十余名と共に米国に遊んだ。其起りは同四十一年に米国太平洋沿岸の商業会議所代表者が渡来した際、日本の実業家と懇親を結んだ関係から、更に其交誼を温めたいとの旨意で、右の八会議所が発起となり、全米国各地の会議所に賛同を求めた結果、各所の米国民一致して日本の有力なる商工業者の一団を招待することになつたのである。私は多年東京商業会議所の会頭であつた関係から米国実業団の渡来した時の歓迎に主人役の一人となつた縁故で、この渡米実業団に加はつたのである。私の此の渡米には一つの重要なる意味を含んでゐた。それは日米間の関係が上述する如く、不良に傾くので、之を一転して相互の情誼を敦からしめたいと云ふ点であつた。米国と日本とは太平洋を隔てゝ相対する国柄であつて、常に同一方面に向つて其の商工業の手を伸ばさねばならぬ立場にあり、勢ひ商工業上競争の状態に入るを免れぬ。これは止むを得ないことであるが、之が為に誤解を生じ感情を傷け、相互の情誼を破壊するやうなことがあつては遺憾千万である。而して之を免れるには、常に意志の疏通を図り互に誠意赤心を披瀝し、和協の途を講ずるより外はない。私はこう信じてゐるので、此渡米によりこの精神を彼等に伝へてその誤解を釈明すると共に、彼等の真相を我国民に伝へてその感情を融和せしめんとしたのである。
 渡米実業団の三ケ月間の旅行は、到る処に於て非常なる歓迎を受け日米両国人の感情を融和するに与つて力あつたのであるが、併し其後も排日を政争の目的とする加州の野心政治家は、依然として排日法案を提議し、一張一弛の有様であつた。
[中略]
想ふに排日烈しく生活困難となれば、動もすれば自暴自棄に陥り易く、乱暴と乱暴とが衝突する、其結果を想像すれば寒心せざるを得ないのである。[中略] 同じ米国人の間には或は調和することありとするも、日米国人間に斯る不祥の問題が起るとせば、事態決して軽しとせぬのである、[中略] かく考へ来れば、国を憂ふ者は我在米農民の現在及び将来に対し、深き考慮を加へざるを得ないのである。従つて私は今回の渡米に際し此等の事情に付き研究し、出来得る限り適当なる方法を講じたいと思ふ。[中略]
 要するに私の渡米の目的の一半は、此等移民の問題を研究して、一面排日緩和の案を求め、一面日本移民の困難を緩和し、以て出来得る限り移民による日米間の不安を除くに努力したいのである。
[中略]
 私は何等日本政府の公務に関係はないが、国民の一員として軍備縮小の事が恰好に各国間に協定せられ、又太平洋会議によりて従来日米間に紛糾する問題が総決算となることを衷心から切望する者であるから、微力老衰をも顧みず此旅行を決心したのである。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第33巻p.155-159掲載)