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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1922(大正11)年11月2日(木) (82歳) 渋沢栄一、日米関係委員会が主催するジョーダン博士とディーン博士の歓迎晩餐会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第33巻掲載】

是日、当委員会主催、アメリカ合衆国スタンフォード大学名誉総長デーヴィッド・スター・ジョルダン博士及び同国ハワイ大学総長アーサー・エル・ディーン博士歓迎晩餐会、東京銀行倶楽部に開かれ、栄一出席す。次いで二十五日、ディーン博士を同所に招じて、ハワイ在留邦人問題に付懇談会を催し、栄一出席す。又二十七日当委員会主催ジョルダン博士招待会同所に催され、栄一出席して在米邦人問題に付懇談をなす。同夜当委員会主催両博士送別晩餐会同所に催され、栄一出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 2節 米国加州日本移民排斥問題 / 3款 日米関係委員会 【第33巻 p.637-640】

1922(大正11)年11月2日、渋沢栄一が常務委員を務める日米関係委員会は、スタンフォード大学名誉総長デイビッド・スター・ジョーダン(David Starr Jordan、1851-1931)とハワイ大学総長アーサー・L. ディーン(Arthur Lyman Dean、1878-1952)を歓迎する晩餐会を開催しました。
ジョーダンはスタンフォード大学の初代学長を務めたアメリカの魚類学者で、1900(明治33)年頃に生物学調査のために、1911(明治44)年には日米関係調整のために来日しています(『渋沢栄一伝記資料』第39巻p.63)。ディーンは当時『竜門雑誌』の中で「癩病研究の大家」(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.110)と紹介された人物でした。
日米関係委員会は栄一の渡米をきっかけに設立された団体です。1915(大正4)年秋、栄一は渡米中にサンフランシスコで同地の有志者と協議し、東京とサンフランシスコとの両地に同趣旨の会を設立、相互に提携して両国民の意志の疏通を図り、紛議解決に勉めることを申合せました。
帰国後栄一は同志をつのり、1916(大正5)年に「日米両国ノ親善ヲ永遠ニ保維スルタメ、常ニ両国民ノ情意ヲ調和融合セシメ、時ニ紛議ヲ生ズルコトアレバ、之ガ解決ニ勉ムル」(『渋沢栄一伝記資料』第33巻p.453)の目的のもと同会が設立され、第1回日米関係委員会会合が1916(大正5)年2月29日に開催されました。
また、栄一がどのような精神で日米関係委員会の事業を進めていたか、姉崎正治(あねさき・まさはる、1873-1949。宗教学者)が語った内容が次のように紹介されています。

    国際関係と青渊先生
         文学博士 姉崎正治
○上略
 日米関係委員会の起原や事業については、こゝに一々述べないが、その事業を進める上に於て青渊先生の精神は、国際親和の大本を精神的親和に据えやうとの大義に立つてゐた。土地所有権とか移民とかの現実問題を討議するに当つても、常に人と人と、人種と人種との精神的融和といふ事を基本とせられた。例へば、人種差別と宗教の異同との関係の如き、伝道布教から生ずる感情の衝突、或は融和の問題の如き、彼国の人との話題に上り、共々方策を討議した事も多かつた。それ等に対して具体的解決案を得ることは勿論困難であつたが、双方委員共に此等の点を念頭に置き、考慮に加へた事は著しかつた。而して委員外で宣教師その他教会関係の人との接触は甚だ多く、移民問題が米国で教会の総会などで議題となり、又差別待遇撤廃が大体教会側の輿論となつてゐるのも、日米関係委員会を通じて、青渊先生の誠意が人を動かしたことが主要の原動力であつた。それのみならず、先生はワナメーカーやハインツなどと個人的に信仰問題を討議し、又日曜学校大会等を通じて、精神的根本からの融和を講ぜられた事も忘れ難い大切の事であつた。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第33巻p.455掲載、『国際知識』第12巻第2号(1932.02)p.42-43)より)

渋沢栄一伝記資料』において日米関係委員会に関する記事は、第33巻から第35巻にかけて掲載されています。
参考:Record of fishes obtained by David Starr Jordan in Japan, 1922
Stanford University Libraries & Academic Information Resources〕
http://searchworks.stanford.edu/view/546417