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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 安政5戊午年12月7日[西暦:1859年1月10日] (18歳) 渋沢栄一、尾高千代と結婚 【『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載】

尾高勝五郎第三女千代子を娶る。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 1部 在郷時代 / 2章 青年志士時代 【第1巻 p.217-219】

安政5年12月7日、満18歳の渋沢栄一は1歳年下の尾高千代(おだか・ちよ、1841-1882)と結婚しました。千代の母と栄一の父は姉弟の間柄で、栄一が少年期より学問の師と仰いだ尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう;あつただ、1830-1901)は千代の兄、後に栄一が見立て養子とした渋沢平九郎(しぶさわ・へいくろう、1847-1868)は弟でした。
千代が嫁した当初、栄一は家業の農業と藍玉販売に従事していましたが、その後攘夷運動に走り出奔、後には実業界へ進出し、その前半生は大きな変化の連続でした。栄一の多忙な日々を支えながら千代はニ男三女をもうけ(長男・三女は夭逝)、1882(明治15)年7月14日、飛鳥山邸で病没しています。
千代夫人については1919(大正8)年に編纂された『渋沢栄一伝稿本』(未完・未刊行)と、穂積歌子(ほづみ・うたこ、1863-1932。栄一・千代の長女)著『はゝその落葉』(竜門社, 1900.02)で以下のように紹介されています。

渋沢栄一伝稿本  第二章・第三八―三九頁〔大正八―一二年〕
○上略 此年安政五年十二月七日、先生尾高氏を娶る、夫人名は千代、尾高勝五郎の第三女なり、其母は晩香翁の姉なれば先生の従妹に当れり。兄に藍香と長七郎とあり、弟に平九郎あり、藍香・長七郎が先生と莫逆の交を重ねたるは上文にいへるが如く、平九郎は後にいふが如く先生の養子となれり。当時民間にては一般に女子の教育を重んぜざる世の習なれば、夫人も僅に手習ひ裁縫を修めたるのみなれど、早くより養蚕に従ひて家業を扶け、且つ機織の事にも習熟したれば、女子として為すべき事は一と通り学び得たるが上に、資性温順にして、而も操守する所正しく、学問は深からざれども、藍香・長七郎等二兄の感化を受け、気節ありてほゞ義理に達したり。夫人の生家は世々名主たる程の門閥なりしが、其頃は家運やゝ衰へながらも、体面をつくろふ為に失費多く、屡晩香翁の扶助を受けつゝ、尚万事はでやかなる家風なりしに、十七才にして来り嫁するに及びて、先生の家庭は全く其生家と相反し、貧富の相違の上に、舅は謹厳にして事を苟もせず、姑は質素倹約を旨として華美を喜ばず、其所天と仰げる先生は家事に頓着せざりしかば、之を慰撫すといふよりは、寧ろ之を戒飭するを常とせり、されば妙齢にして境遇の急激なる変化に逢へる夫人が、舅姑に仕へ良人に事ふる苦心は、想像に余りありといふべし。然れども義理に達し節操堅き夫人は、之に仕へて婦道を尽し、其歓心を失はず、又善く先生の姉妹を敬愛せしかば、先生の一家は、夫人を迎へてより春風堂に満てり、且家政を処理することには最も長じたれば、先生が他日志士として四方に奔走するに際し、毫も後顧の憂なからしめたるは、其内助の功多かりしなり。
はゝその落葉(穂積歌子著)  巻の一・第三―四丁〔明治三三年〕
○上略 我母君は [中略] 八九才の御時。二年ばかりが程姉妹の君たちと共に。血洗島村なる伯父君渋沢長兵衛ぬし喜作ぬしの父君。の許に手習ひに通はせ給ひけり。これぞ誠に母君がもの学ぶ為に費し給ひし月日なりける。其後は家の専らの務とすなる蚕飼のわざはさらなり。糸とり。機織り。衣のたち縫ひより。はたとりいれ時などのいそがしき時は。いと荒々しきわざをさへつとめ給ひ。よのをとめ子が髪上げけはひに心をこめ。糸竹の遊びに日を暮らすなど。心のどけきありさまは。夢にだに見るよしもなく。あたらさかりの御年頃も塵にまみれて打過ぎ給ひけり。されど御色白く。御姿たをやかにおはしましければ。磨かぬ玉のそこに光をつゝめるが如しとて。人々惜しみあへりけりとぞ。
其頃の世のさま。殊に田舎わたりにては。手書き文よむわざの教などもとより今の世の如くにはあらざりけれど。御父母の君たち御さが孝順にましまし。親に仕ふるの道をつくさせ給ひ。しかも御母は御心雄雄しく。義の為には身をもかへりみ給はざる御気性。をのこにもまさりおはしましければ。庭の訓はいとおごそかにせさせ給ひけりとぞ。殊に第一の御兄君は誰を師として学び給ふともなく。からやまとの文読みきはめ給ふばかりの才おはして。御いつくしみさへいと深かりければ。いとなく家のわざつとめ給ふひまひま。常に忠孝節義の道をとき聞かせて。御はらからの君たちを教へ導かせ給ひければ。皆御心ざま正しくこそ生ひ立たせ給ひけれ。
かくて母君十八才になり給ひける冬の頃安政五年十二月七日我大人の許にとつがせ給ひけり。よろこびあればかなしみありてふよのことわざにもれず。御里なる父君俄に病み給ひて。同じ月の八日にかくれさせ給ひけり。我渋沢の祖父君は。尾高の御祖母君の御弟におはしましければ。元より親しき御中なりけり。此家中の家とよべり東の家西の家に対へていへる称なり。の御掟は極めておごそかに。極めてつゞまやかなりけれども。母君の御性行さばかりにましましければ。いかで舅姑の君の御心にかなはせ給はざるべき。御中らひいとうるはしう。吉岡の家にとつがせ給ひし御姉君なるなか子君。家なる御妹君の貞子君とも。まことの姉妹の如く親しみかはし給ひ。二三年が程はのどけき月日をぞ送り給ひける。
はゝその落葉(穂積歌子著)  巻の二・第二八―二九丁〔明治三三年〕
○上略 母君は御姿いとたをやかにて綺羅にも堪へぬ御ありさまになんおはしましける。されど御心の雄々しくましましゝかば。うら若き御年頃より織り、紡ぎ、蚕飼のわざはさらにも云はず。石臼もて麦の粉をひき。くるり棒てふものもて干したる豆を打ちなど。いと荒々しきわざをさへ。人におくれずつとめ給ひけりとなん。されどよそめはなよ竹の雪にたわむが如く。いたいたしうや見え給ひけん、中の家の祖母君常に。千代が品形の上償wしきは。深き窓の中に奥さまとかしづかるるにこそふさはしからめ。我ともがら程の家には。姿はいかにしな無くともなほ骨太う生れ附きたらんものこそよけれ。と仰せられぬとぞ。父君なり出で給ひて後。祖母君始て湯島の家に来り給ひし折。母君の御ありさまをつくづく打まもり給ひ。あはれかゝる身に成りぬべき宿世ありとも知らで。田舎の家の家刀自には似つかしからざりしをうらみしこそおろかなれ。其かみ我がのぞめる如き生れだちならましかば。
今しも如何にあかぬ心地のすべきと宣ひけりとなん。されば母君の御手のいと白く細きには似つかず御指の節ふとくおはしまし。又物もたげ給ふ御力も。肥え肉づきたる侍女には。はるかにまさらせ給ひき。
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.217-219)



参考:渋沢雅英著 『渋沢家の女性たち : 千代・歌子・敦子の生きた時代 : 講演録』 (現代女性文化研究所, 2008.06)
〔渋沢史料館 - 渋沢栄一記念財団〕
http://www.shibusawa.or.jp/museum/store/kankeisyo28.html
船戸鏡聖著 『たおやかな農婦 : 渋沢栄一の妻』 (東京経済,1991.05)
NDL-OPAC - 国立国会図書館
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000002111094/jpn