情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1909(明治42)年12月20日(月) (69歳) 渋沢栄一、東京手形交換所等銀行関係四団体主催による渡米実業団帰国歓迎会で演説 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

是日、銀行倶楽部に於て当交換所及び東京銀行集会所・銀行倶楽部・東京興信所四団体主催による、渡米実業団京浜団員帰国歓迎会開かる。栄一出席して演説をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 1章 金融 / 2節 手形 / 1款 東京手形交換所 【第51巻 p.131】

1909(明治42)年12月20日、東京手形交換所および東京銀行集会所、銀行倶楽部、東京興信所の四団体は、渡米実業団に京浜から参加した渋沢栄一ら旧団員の帰朝を歓迎する会を開催しました。栄一はその席上、アメリカの国民は勇敢でかつ善を志向する念が強い、また所謂「ホルクアー」(仏語 pourquoi : 何故と理由を問う姿勢)の観念が強い、そのことが今日の発展をもたらしたのであろう、と述べています。
また、金融機関の統一組織としての中央銀行について、アメリカ人識者に意見を求めたエピソードを以下のように語っています。

[前略] 一日市俄古に於て有力銀行六七行主催に係る歓待の折り、予は本邦に於ける銀行制度の沿革を語り、当初多頭政治の状態たりし我が銀行業も、十五年日本銀行の設立せらるゝに及では全く統一主義となり、而して年の経過すると共に一同金融機関の統一組織の下にあるは、大体に於て可なりと信するの念一層強きを加ふ、然るに方今米国に於ては此事実が一大問題と為りつゝありと聞く、之れに対する米人の所見如何と問ひ試みたるに、中央組織は政治的趣味の加味せらるゝ懸念ある為め非なりとの答を得たり、而して後ち紐育に至るや、セリグマン教授は松方君を介して、自説の論拠に供せんが為め予の中央銀行設立説を確め来れり、依て之に対し米国にして若し永く現状の儘にして中央銀行の設立せられざるに於ては、他日再び卅九年に於けるが如き恐慌を繰返すの悲況に陥る事あらんと云へり、省みれば七年前ルーズベルト氏に依て我国は軍事と美術に付て頗る称讚を得たれど、商工業に至ては遂に氏の称辞を受くる事能はざりしが、今回計らずも我が銀行業のみは彼が称讚の辞を得たり、是れ実に銀行倶楽部・集会所の余光の然らしめたる所と、深く感謝の意を表する也 [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.417-418掲載、『竜門雑誌』第260号(1910.10)p.41-46「青渊先生歓迎会彙報 銀行家の歓迎会(廿日)」より)