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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1910(明治43)年1月10日(月) (69歳) 渋沢栄一、第1回渡米実業団残務整理委員会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是日 [1910年1月10日] 並に三月二十八日、渡米実業団残務整理委員会開催せられ、栄一出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.456-459】

記念銀器

 「記念銀器」
(「西陣織感謝状並記念銀器」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)



1909(明治42)年9月から11月にかけて全米各地を訪問した渡米実業団は、残務整理のために委員会を設置、1910(明治43)年1月10日に第1回委員会が、3月28日に第2回委員会が開催されました。渡米実業団の団長を務めた渋沢栄一は、それぞれの委員会に出席しています。
委員会では訪米顛末記録としての『渡米実業団誌』や『紀念写真帖』の編纂のほか、感謝状や記念品の贈呈についての決議がなされました。『渋沢栄一伝記資料』第32巻にはそれぞれの委員会での決議内容が以下のように紹介されています。

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第六二三―六二九頁 明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第十章 残務整理
[前略]
   第一回委員会
斯くて帰朝後、第一回委員会を明治四十三年一月十一日(マヽ)、東京商業会議所内に開く。当日の出席者左の如し。
  渋沢男爵・土居通夫・大谷嘉兵衛・松方幸次郎・上遠野富之助・日比谷平左衛門・根津嘉一郎・岩原謙三、外に水野幸吉・巌谷季雄・加藤辰弥
当日事故の為め欠席せるは左の如し。
  中野武営・西村治兵衛
此第一回委員会に於て決定せる事項左の如し。
一、団誌編纂  実業団の出発前より帰朝後に至る間の、本団に関する詳細なる記事を編纂し(約七百頁)之れを団員及び本団に関係ある当局・会議所・新聞通信社・図書館其他へ配布し、周く世人をして本団の行動を知らしむる事。
一、感謝状  米国各地の商業会議所・学校・工場、其他の団体にして、本団の為めに斡旋尽瘁せる向に贈与すべき感謝状は、京都高島屋見本に憑り、之れに日米両国に因める意匠を凝らしたる、横二尺・縦三尺の西陣織額地を製作し、感謝文は、渋沢男の手になりたる揮毫を其儘織出し、尚ほ正賓・専門家の自署を悉く織出せるものとす。(巻頭所載)
一、記念品  接伴委員長ローマン氏始め、終始本団に随伴せし、各地商業会議所代表者・政府派遣委員・各商業会議所書記長・各地鉄道会社代表者・在米帝国臨時大使・総領事・領事及び名誉領事等にして、間接直接、本団の行動に対し、援助又は斡旋の労をとられたる向に贈呈すべき銀器紀念品は、東京多聞店主益田英作氏に之れが製作を依頼する事、而して其意匠は四千年前周の時代に於て祭祀の際用ひし彜の形を採り、之れを純銀にて製作し、一号より四号迄の種類を作り、外に五・六号の花瓶を作り、併せて六種類とし、尽力斡旋の多少により、之れを贈呈する事。(同上)
一、紀念写真帳  実業団の一行及び随員、米国接待委員等の小照を集めて印刷し、之れを団員・接伴員及び関係会議所へ配布する事。
而して以上各種の残務整理の為め、渋沢男爵を相談役とし、委員長を中野武営氏、残務整理主任を総領事水野幸吉氏、編輯主任を巌谷季雄氏、庶務会計を加藤辰弥氏に夫々嘱託する事とし、委員会は事件のある毎に、委員長随時之れを召集して、出席者の多少に不拘開催する事とし、爾来各委員は着々其整理に従事せり。
   第二回委員会
残務整理主任水野総領事は、帰朝以来其整理に鞅掌せしが、其整理も略ば進捗せしを以て、愈々四月六日出帆の地洋丸にて、紐育へ帰任の途に上るに付き、明治四十三年三月二十八日、東京商業会議所内に、第二回委員会を開催す。当日の出席者左の如し。
   渋沢男爵・中野武営・大谷嘉兵衛・日比谷平左衛門・佐竹作太郎・岩原謙三・根津嘉一郎・水野幸吉・巌谷季雄・加藤辰弥
欠席者
   土居通夫・西村治兵衛・松方幸次郎・上遠野富之助
午後二時開会、中野委員長開会の主旨を述べ、残務整理の現況に付ては各主任より左の如く各々報告ありたり。
渡米実業団誌 巌谷主任は原稿六百余頁を示して、編纂の状況を説明し、印刷は之れを東京商業会議所副会頭大橋新太郎氏の好意により、同氏の経営せる博文館印刷所に於て担当する事に決し、印刷製本出来の上は、団員其他へ配布し、残余は之れを博文館にて売捌き、収益ありたる時は、不足予備費に繰込む事に協議決定せり。
感謝状 水野主任前述意匠により、高島屋にて製織せる見本感謝状を示して説明し、一同の批評を乞ひ、一同満足の意を表したり。尚ほ右感謝状は署名者に一枚宛無代にて配布の手筈なりしも、経費の都合上之れを許さず、実費を以て之れを分つ事とせり。
紀念品 水野主任は多聞店の製作に係る一号より六号迄の銀製紀念品を示して説明あり、一同の批評を乞ひしに、満場異議なく決定す。
其他紀念写真帳は目下製本中なれば、数日中に出来、配布の運びに至るべしと報告をなせり。斯くて第二回委員会の閉会を告ぐ。
帰朝以来残務整理主任として、種々斡旋の労をとりたる水野幸吉氏は其整理の進捗と共に帰任を急ぎ、夫人・令息・令嬢と共に、四月六日横浜出帆地洋丸に便乗せるに依り、渋沢男・同夫人・神田男・同夫人・中野・大谷・佐竹・日比谷・根津・岩原・左右田其他多くの団員諸氏は、新橋或は横浜埠頭まで之を見送れり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.456-458掲載)

なお、『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.459には、第1回委員会の開催日について以下の通り注記がなされています。

○第一回委員会ノ開催日ハ一月十日トセルモノト、十一日トセルモノ二通リノ資料アリ。茲ニハ姑ク十日トナス。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.459)