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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1926(大正15)年1月18日(月) (86歳) 渋沢栄一、東洋汽船と日本郵船の合併調停案を提示 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

日栄一、郷誠之助及び井上準之助と共に、当会社と日本郵船株式会社との合併に関し調停案を提示す。両会社之を受諾す。其骨子は、当会社の桑港線及び南米西岸線の両航路権並に就航船八隻を以て第二東洋汽船株式会社を設立し、該会社を日本郵船株式会社に合併するものにして、二月二十二日、合併仮契約の調印を了す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 2章 交通・通信 / 1節 海運 / 2款 東洋汽船株式会社 【第51巻 p.482-500】

第一次世界大戦後の海運不況の中で東洋汽船は経営困難となり、1926(大正15)年2月に客船部門を分離独立させて第二東洋汽船を設立、これが日本郵船と合併されました。
1926(大正15)年1月18日、渋沢栄一は合併にあたり郷誠之助(ごう・せいのすけ、1865-1942)、井上準之助(いのうえ・じゅんのすけ、1869-1932)と共に両社に調停案を提示しました。この時の経緯は日本郵船、郷誠之助、井上準之助それぞれの視点から以下のように記録されています。

日本郵船株式会社五十年史 同社編 第三四八―三五四頁 昭和一〇年一二月刊
 ○第二編 第八草 第二節 桑港線及び南米西岸線の継承並に改善
    第三款 第二東洋汽船会社の合併
      合併問題の由来――合併の経緯――合併の方法――合併契約の実行
○上略
 合併の経緯  其後世界海運界の不況は益々深刻となり、東洋汽船会社の経営難は愈々加はれり。即ち外には桑港線に於ける競争対手たるダラー社が [中略]、内には桑港線の使用船老齢と為り補助金受領資格を欠くが為め、新船建造の必要に直面するに至り、東洋汽船会社は内外容易ならざる窮地に陥れり。是に於て逓信当局並に財界有力者の合併意見は著々具体化し、大正十四年五月以来子爵渋沢栄一井上準之助・男爵郷誠之助の三氏起ちて当社及び東洋汽船両社に対し慫慂斡旋に力む。依て当社は再度調査審議の末、東洋汽船会社の財産中より陸上財産及び貨物船を除き、単に桑港線及び南米西岸線の営業権と其使用船舶を挙げて之を継承するの案を三氏に提出したり。此間に在りて安達逓相亦本邦航権の前途を憂ひ、外国競争船に対抗し得べき優秀船の就航に関し、特に補助方法を講ずることとなれり。渋沢・井上・郷の三氏は、両社より提出せる採算及び希望を慎重に考慮せる上、裁定案を作製して之を両社に提示せり。其骨子左の如し。
   東洋汽船は、桑港線及び南米西岸線の一切の営業権を其使用船八艘と共に日本郵船に譲渡し、日本郵船は、右対価として額面五拾円全額払込済の株式拾弐万五千株を東洋汽船に交付する事
 当社は本裁定案を以て、当社の宿望たる南北太平洋航路及び南米東西両岸航路の統一的解決に適当なりと認めて之を諾し、東洋汽船亦之を承諾したり。
 是に於て多年の懸案たる両社合併問題は、漸やく実現を見る事となれり。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.482-483掲載)


郷誠之助談話筆記           (財団法人竜門社所蔵)
                 昭和十一年十月九日 於同氏邸
    東洋汽船と郵船の合併
 その頃、子爵はもう実業界から引退されてゐたのだが、何かと皆が相談に行つてゐた。この時は表面に立たれることはなく、仕事は私と井上準之助とでやつた。井上は浅野側で、私は郵船側であつたが、浅野との交渉は渋沢さんにお願ひして、説得して貰つた。実をいふと、あの時はむしろ大部郵船の方に有利に終つた。後で浅野は泣いてゐた程でした。
 要するに、この問題は私と井上との間で折衝し解決案を作り、それを渋沢さんに報告して裁断して貰つたといふことになる。
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.496-497掲載)


井上準之助伝 井上準之助論叢編纂会編 第三三三―三四二頁 昭和一〇年四月刊
 ○第六編 第六章 財界世話業
    第二節 日本郵船会社と東洋汽船会社との合併
 我国海運業は欧洲大戦乱勃発と共に劃期的飛躍を遂げ、太平洋・印度洋はおろか、遠く大西洋にまで我船舶の進出を見た。然るに大正七年十一月、休戦条約の締結を見るに及んで、各国は自国産業の回復を計ると同時に、失はれたる海上権の奪回に努めた為め、我海運業は一朝にして其の地盤を失ふに至つた。加ふるに米国政府が其の剰余船舶を払下げ、東洋航路に優秀なるプレシデント型を出現さすに及んで、最大打撃を蒙つたものは命令航路たる桑港線を維持する東洋汽船であつた。元来東洋汽船は浅野総一郎氏の豪放なる経営の下にあつて、創立当初より放胆なる施設を為し、[中略] 会社の営業成績は浮沈常なき状態であつたが、幸ひ欧洲大戦に遭遇するに及んで、未曾有の収益を挙げ、漸く同社の基礎は確立せられんとした。然るに此の収益を社内に留保することなく、拡張資金に充当したので、折角建直りかけた同社の資産内容は大戦終熄と共に再び悪化し、無配当に次ぐ無配当を余儀なくさるゝに至つた。それは同社の株主に多大の迷惑を及ぼしたばかりでなく、巨資を投じてゐる安田銀行をも危殆に陥れる結果を招いた。[中略] 当時より此の合併問題の斡旋役を引受けてゐたのが、渋沢栄一子を中心とする井上君と郷誠之助男であつた。渋沢子が我国財界の元老格として、斯の如き問題が起る場合に其の間の斡旋に当るのは当然であつたが、井上君は当時、日本銀行時代の盟友であつた結城豊太郎氏を安田銀行に推薦した関係で、安田一家とは間接ながら縁故があつた。従て井上君は安田家の盛衰については十分の関心を持つ地位にあつたのである。
[中略] 政府が此の線を命令航路に指定して東洋汽船に授命したのは明治三十三年一月で、それ以来政府は大正十四年迄に累計三千七百万円の補助金を支給してゐる。然るに受命会社たる東洋汽船は当時既に三千万円の負債を背負ひ、半期の欠損は二百万円に達せんとする有様で、此の儘に放任せんか同社の倒産は火を見るよりも明かである。二十五箇年の長年月に亘つて三千七百万円の国費を蕩尽しながら、受命会社として代船一隻すら建造し得ない東洋汽船の不成績は遺憾であるが、特に此の航路に対して打撃を与へたものは、米国船舶院のプレシデント型の出現である。吾々は先づ東洋汽船の営業成績を言ふ前に、此の米国船に対抗すべき優秀船を建造しなければならぬ。[中略] 東洋汽船は其の存立さへ危ぶまれる状態に立ち到り、代船を建造して外国船に対抗する見込みは到底望まれぬので、政府は之れを郵船会社に受託せしめんとしたのであつた。但し桑港線の運営権を奪つて郵船会社に与へるだけでは東洋汽船を自滅さすのみである。北米方面に於ける東洋汽船の名は二十数年に亘つて広まつてゐるから、国の体面からいつても此の名を徒らに滅すことは良策でないといふ理由で、政府当局者は桑港線の挽回を目的として新優秀船の建造計画を進めると同時に、郵船会社と東洋汽船の合併に対し、特に尽力することゝなつたのであつた。[中略] 新合併案は桑港線の維持といふ国策上の目的が其の骨子となつてゐたので、政府より財政的援助を受けるといふ事が第一要件となつた。これは時の逓信大臣安達謙蔵氏が立案したものであつたが、郵船会社は直ちに之れを承認し東洋汽船への交渉は井上君が引受けることゝなつた。仍て井上君は東洋汽船当事者と数次折衝を重ね、その結果同社々長浅野総一郎氏は合併の根本案に賛成することゝなり、遂に数年来の懸案であつた両社の合併問題は大正十五年に至つて漸く解決した。但し此の合併案の根本を為す政府補助金の増額は議会の承認を得る必要があつたので、一時仮契約を結び五十一議会の協賛を経て、初めて効力を発することゝなつた。
[中略] 最初郵船会社は十万株を適当とし、東洋汽船は十五万株の引渡しを要求した。然し渋沢・井上・郷の斡旋者はその中間を取つて十二万五千株に纏めたのであつた。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.497-500掲載)



参考:郵船東汽合併の条件を正式に提示 中外商業新報 1926.1.20(大正15)
〔新聞記事文庫 - 神戸大学附属図書館〕
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10028549&TYPE=HTML_FILE&POS=1
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 海運 A
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/037.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 海運A