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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1912(明治45)年4月5日(金) (72歳) 渋沢栄一、静養中の徳川慶喜を見舞う 【『渋沢栄一伝記資料』第57巻掲載】

日栄一、国府津に転地静養中の徳川慶喜を見舞ふ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 3部 身辺 / 5章 交遊 / 1 徳川慶喜 【第57巻 p.396】

渋沢栄一 日記  明治四五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月五日 晴 暖
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食シ、後御伝記 ○慶喜公伝原稿ヲ調査ス、午前九時二十五分ノ大磯発汽車ニテ国府津ニ抵リ徳川老公ノ僑居ヲ訪フ[、]二月頃ヨリ喘息ヲ患ヒ熱気モ高カリシガ、昨今ハ略全愈トノ事ナリ、御僑居ハ大鳥氏ノ別業ニテ頗ル山水ノ景勝タリ、持参セシ老公幼時ノ書画及小田又蔵氏ノ秘蔵シテ其孫耕二ガ愛蔵セル諸名家ノ書状ノ巻物ヲ御覧ニ供シ、共ニ往事ヲ回想シテ懐旧ノ談多カリキ、十二時大磯ニ帰リ、背後ノ小邱ヲ散歩ス、午飧後御伝記原稿調査ニ勉ム ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.396)

幕末の動乱の中、縁を得て一橋慶喜ひとつばし・よしのぶ、1837-1913)の臣下となった渋沢栄一は、第15代将軍となった徳川慶喜が政権を返上・蟄居した後も旧主慶喜を恩人とし、その伝記編纂を計画、1907(明治40)年から慶喜没年の1913(大正2)年まで、慶喜の談話を記録する「昔夢会」を継続して開催しています。
渋沢栄一伝記資料』第47巻p.704-705には、栄一の慶喜に対する心情が、『徳川慶喜公伝』編纂の校修者三上参次(みかみ・さんじ、1865-1939)が語った内容として次のように紹介されています。

竜門雑誌  第五一九号・第三六―三八頁 昭和六年一二月
    青渊先生と白河楽翁公とに就て
                 文学博士 三上参次
○上略
 先生[渋沢栄一]が屡々仰せられますことに、自分に二人の大きな恩人がある。皇室の御恩は申上ぐるに及ばず、之を別にしては私は徳川慶喜公、十五代将軍と白河楽翁公と二人あると云ふ御述懐を時々承つたことがあります。其慶喜公に付ては、幕末の青渊先生二十四歳のときに、埼玉県血洗島を出られまして江戸へ来られたのでありますが、御承知の通りの幕末紛擾の際であります、先生も当時の壮士の一人として頗る攘夷思想に関係して居られました、或時には横浜の所謂異人館の焼討なども企てたことがあると承つて居ります。さう云ふ最中でありますから随分危険なる渦まきの中に捲き込まれると云ふやうな事もあつたと思はれるのであります。丁度其翌年に一橋家へ仕へられて慶喜公を主君と仰ぐと云ふ御関係にあらせらたのでありますから、一面から見ますると慶喜公は自分を救つて呉れた恩人である、其恩徳は永く忘れることは出来ないと云ふお話であります。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.704-705)

参考:昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談 / 徳川慶喜著 ; 渋沢栄一編 ; 大久保利謙校訂
国立国会図書館 NDL-OPAC(書誌 全項目表示)〕
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001091159/jpn