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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1915(大正4)年5月3日(月) (75歳) 渋沢栄一、大日本平和協会の阪谷、G.ボールズらと論議 【『渋沢栄一伝記資料』第35巻掲載】

是日、当協会副会長阪谷芳郎、同理事ギルバート・ボールズ添田寿一、宮岡恒次郎兜町邸に栄一を訪ひ、日支問題に関して論議す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 2節 米国加州日本移民排斥問題 / 7款 大日本平和協会 【第35巻 p.516-517】

阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正四年
                 (阪谷子爵家所蔵)
○三月十八日、ボールス氏来談、日支交渉日本出兵ノ攻策ニ付心配ス[、]宮岡、添田二氏ニ電話シ明日会合ヲ約ス
○三月十九日、日本クラブニテボールス、添田、宮岡、及余四人会談ス、此日八十島ニ談シ渋沢男ニ伝言ス(日本出兵ノ件)
   ○中略。
○四月廿二日、兜町ニテ渋沢男ニ面会ス(此日松方(侯)ヲ訪問面会ス)
 男ヨリ四月一日付ボールス君来状、日支交渉ノ件、山脇君来状、日米商業会議所(三月十六日付)ノ件ニ付談話アリ
   ○中略。
○五月三日、兜町邸ニテ(渋沢邸)午餐ヲ共ニシ、日支交渉ニ関シ日本ノ取レル態度ニ付ボールス氏意見アリ、論談ス、渋沢、添田、宮岡、ボールス、余
(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.516-517)

1915(大正4)年5月3日、渋沢栄一は大日本平和協会の副会長、理事らの訪問を受けて、外交問題について談義をしています。この時の話題である日支交渉とは、当時日本が参戦していた第一次大戦に関わるものでした。第一次大戦で独領南洋諸島、青島等を占領した日本は、1915(大正4)年1月に袁世凱政権に21か条要求を提示、それに対してアメリカ政府は日本に文書を送り、袁政権支持と日本への抗議を表明しています。
日本平和協会とは、「人種間及国家間の関係をして親密ならしめ、国際紛議が成るべく平和的手段を以て解決せらるゝ様に尽力し、以て世界の平和を保全し人類の幸福を増進」することを目的とした団体で、設立は1906(明治39)年、在日米人平和協会員であったギルバート・ボールズ(Gilbert Bowles、アメリカ人宣教師、普連土女学校校長)らが中心となって日本人に組織設立を呼びかけ、江原素六(えばら・そろく、1842-1922.東洋英和学校校長、麻布中学校長)を初代会長として5月18日のヘーグ・デーに発会式が開催されました。
渋沢栄一は1912(明治45)年2月より同協会の名誉評議員に就任、1925(大正14)年5月に解散してその機能を国際聯盟協会に継承するまで同会に関与しています。また、栄一女婿の阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863−1941)も1912(明治45)年1月からは副会長、1922(大正11)年からは会長として、解散まで同会事業に尽力しました。
渋沢栄一伝記資料』第35巻p.497-498には、渋沢栄一と同協会との関わりが「富山接三談話筆記」の再録として次のように紹介されています。

富山接三談話筆記            (財団法人竜門社所蔵)
             昭和十一年五月一日、於第一銀行編纂員佐治祐吉筆記
    大日本平和協会に就て
[前略]
 ○扨、渋沢閣下が大日本平和協会へ御関係になられた次第を申しますと、明治四十二年子爵は渡米実業団を組織して米国内を旅行せられボストンへ御出の時に、有名な平和運動家の夫人、ジン氏及一行中の佐竹作太郎・中野武営・大橋新太郎の諸氏と会談中、帰国の後日本に於ても平和協会を作らうといふ話になった――さういふ事を米国の友人から私に通信がありました。
 ○私は早速中野武営氏を訪ねて、此事を相談しました。すると中野氏は曰く「それはよいが、自分や渋沢男爵は、先づ実業界の公卿のやうなものである、渋沢男爵から寄附金は取らぬやうに、大橋・佐竹の両氏から出して貰へ」といふ訳で、私は次に佐竹氏を訪うて承諾を得寄附金として九百何円かの金を受取りました。
 ○次で渋沢閣下を兜町の事務所へ度々御訪ねしたのです。それには先づ当時の秘書の八十島君が友人だつたので、よく此平和運動の主旨を同君に述べ、その肝煎で、閣下にお目にかゝりました。所が閣下は「自分の如き実業家は教育事業とか、人道的救済的のものならば援助するが、さういふ運動には援助は出来ぬ」といふお話でした、――これはいかん、これは何か閣下が誤解せられてをる、それに心当りもあつたのです、それといふのは、当時平和運動社会主義とが同一視され易く、現に沢田節蔵氏が平和協会に関係してをる時に、木下尚江氏から合同法を二・三回申込まれたといふ事もあつたのです。それで私は猶改めて八十島君に会ひ、十分に平和運動の本質を説き、平和運動社会主義と混同せられては困る、殊に閣下のやうな社会的に大きな立場に立つてをられる人がかゝる誤解を抱かれては困ると抗議して、なほ数回――八十島君は非常に多忙だつたので――折を見ては会見して、十分に了解するまで話しておきましたが、渋沢閣下の方はそのままに致しておきました。だから明治四十三・四年には協会と閣下との御関係は無いのです。たゞ大隈伯爵邸で催した晩餐会とか、其他の催のある時には渋沢閣下とか岩崎氏等を招待しましたので、其時に臨席せられた位でした。
 ○私が明治四十五年に渡欧する際に、然るべき人に平和協会の仕事をやつて貰いたいと考へまして、阪谷男爵は国際経済会議に使節として御渡欧にもなつてゐられるし、男爵にお願したいと考へました。当時男爵は多分大隈伯が協会の会長であつた関係からか会員にもなつてをられませんでした。それで私が協会の副会長に御就任を乞ふと、いづれ渋沢男爵と相談してから返事をしようといふ事でしたが、明治四十五年の初に其就任を承諾せられて事実上の事務を執られる事になり此時に渋沢男爵を名誉評議員にお願する事になりました。正式に渋沢男爵が協会と関係せられたのは此時からです。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.497-498)

参考:国際協調型平和運動 : 「大日本平和協会」の活動とその史的位置 / 坂口満宏 (PDF)
〔『キリスト教社会問題研究』第33号(同志社大学人文科学研究所, 1985)p.115-142 - 同志社大学学術リポジトリ
http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00009230/Body/002000330004.pdf