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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1924(大正13)年5月4日(日) (84歳) 渋沢栄一、大日本文明協会の評議員会で日米問題について談話 【『渋沢栄一伝記資料』第47巻掲載】

日栄一、大隈信常邸に開かれたる当協会評議員会に出席し、日米問題に関する談話をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 6章 学術及ビ其他ノ文化事業 / 1節 学術 / 10款 大日本文明協会・財団法人文明協会 【第47巻 p.265-267】

大日本文明協会は大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838-1922)の主唱によって1908(明治41)年4月に設立された団体で、1925(大正14)年には改組・改称により財団法人文明協会となりました。同協会は国民知識の向上進歩、東西文明の協調融合を目的に、世界の名著の和訳刊行のほか、1918(大正7)年からは各界の第一人者による講演会等も行っています。渋沢栄一は1908(明治42)年8月より特別賛助会員として、1920(大正9)年からは評議員を委嘱され、名称が財団法人文明協会と改められた後も引続き評議員を務め、没年に至るまで同会に関与しました。
1924(大正13)年5月4日、栄一は大隈信常(おおくま・のぶつね、1871-1947。教育者・政治家、重信の養子)邸で開催された大日本文明協会評議員会に出席、日米問題に関する談話をなしています。その際に語った内容は『渋沢栄一伝記資料』第47巻の中で次のように紹介されています。

文明大観 大日本文明協会編  第二冊・第一一二―一一四頁 大正一三年六月刊
    評議員会に於て渋沢男語る
当日 ○大正一三年五月四日 渋沢男が語られた所は大要左の如くであつた。
 「[前略] 至つて不勉強な私、切角協会から種々有益な書物が出るにも係らず、多くは読み得ないのでありますが、多分前年一月に出た筈の百才不老、あれは私達老人には至つて有興なもので、精読と云ふのではないのですが、面白く読みました。多分ラプソン・スミス氏の著でありましたが、兎に角年寄には金科玉条の文字です。勿論よく読めば何人も知つて居る様な説ではありますが、知つて仲々実行し得ない所を巧みに実際に就いて述べてある。スミス氏の提案は、六十才より九十才に至る時代を如何に有用にすべきかと云ふ人物経済から見られたので、吾々老年者には至つて力強い味方です。或る立派な医者の説として、六十才以後は酔生夢死のような生活である、これには寧ろクロロフオルムを飲ませて殺すべしと真面目に説いたとありますが、之に対して、老人が完全に働いたならば別に斯る必要はないではないか、或は時に多年の実経験によつて世を益するかも知れないと云ふのです。老人共も安心の訳合ひです。
 「そこで、如何にして保健を保ち身心共に立派に活動し得ららるゝかとの養生説が出て来るのですが、著者は六十から九十までを大凡三段に分けてあります。これを一言で云へば、第一は活動の必要です、然し此の間には亦養生がなければならない。そこで活動に次ぐ摂生、次に満足とありましたが、これは色々の意味にも解せませうが、私は平和と解しました、心の平和、外部に対しての平和、随つて活動と平和と摂生と云ふ三段に関して深く述べられたのです。
 「日本にも姨捨山のようなものもありますが、既往の経験は老人によつて知るを得ますので、これを六十才にして殺して了つては新知識は新人の方々で自由に出来ませうが、古きを知るには不都合です、つまり下世話な短い例で申しますと、ある有用な機械もこれを使過しては不可いが、と云つてこれを寝かせて置いては切角の器に錆を生ずると云ふので、錆びさせず、使過ごさずと云ふにあります。誠に結構な本でした。[中略]
 「次に日米問題に対して何かとの仰せですが、此の席上で斯る問題を申上げるのは如何かとも思はれますが、一言故侯の霊前に告げたいのでございます。昨今日米問題の形勢は甚だ雲行きが面白くなく、かうなる前に何とかせねばならぬと思つて、及ばすながら出来る丈けのことは骨折つて見たのであるが力及ばず誠に残念なことであります。一体日米の国交は久しい前から種々の経緯があつたので、明治四十年頃には米国に於て邦人学童問題が起り、職業別問題が生じ、日本人排斥の声が熾烈となりましたので、一九〇六年には時の小村外相は日米間に紳士協約を結び、国民相互の外交、日邦人の移民問題を一時的に解決し、一方日米両国の商業会議所の主催で観光団を組織して、両国民がお互の国情を研究する事ともなり、日米問題に就いて懇談もしたのでありましたが、大正二年にはまた加州土地法案が制定されて邦人の借地権は之れに限定されたのでした。
 丁度私が大正四年二度目に日米関係視察のため米国へ参りました時これは日曜学校と博覧会のために出掛けましたので、当時は故侯の内閣時代でした。例の二十一ケ条問題で東部の人気は至つて険悪でありましたので、ワ"アンダーリツプ氏なりエリオツト氏になり会つてよく事情を話したりいたしました。[中略]
 例の親日の巨頭であるアレキサンダ氏の如きも、従来色々と努力して呉れられたのですが、仲々此の問題は円満に参りません。其後両国の関係は大分悪化しまして、一九二〇年頃にはインシユレル・レフレンダムが採用され、その翌年の大正十年には人も知る華府会議が開かれまして、軍備制限や太平洋問題が論議されましたが、肝腎の加州移民問題は論及を見ませんでした。私は及ばずながら日本の国交を改善する機関として、アレキサンダー氏と談合の上、両国に高等委員の設置を計つても見ましたが、それも成立を見ず、両国の関係は益々悪化して、米国下院では先月の十二日にヂヨンソン案のあの様な排日的移民案が通過し、まさかと思つた上院も亦同案に類似の移民案を多数で通過いたしました。現状斯くの如くで将来は何うなるかは知るを得ませんが、米国大統領クーリヂ氏が日本の意志を知つて、正義人道のため、世界の平和のため排日案を認承しないで貰ひたいと切望するのであります。」云云
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.265-267)

なお、この会合から約2か月半後の7月20日、大日本文明協会は日米問題特殊研究会を開催、栄一は座長に推されて意見を述べています。栄一が語った内容や会の様子が紹介された「日米問題研究会の記」(『文明大観』第5冊(大日本文明協会事務所, 1924.10)p.99-116)は『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.267-285に再録されています。