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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1887(明治20)年5月5日(木) (47歳) 渋沢栄一、京都織物会社の設立を支援 【『渋沢栄一伝記資料』第10巻掲載】

是より先、二月二十七日附を以て京都織物会社創立願書提出中のところ、是日創立許可せられ、六月二十二日京都商工会議所に於て創立認許後第一回株主総会を開く。栄一、大倉喜八郎・益田孝と共に相談役に選挙せらる。尋いで七月一日府立織殿払下許可せられ、以後明治二十三年五月一日迄仮営業を為し、二十三年五月一日を以て営業開始と為す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 2節 蚕糸絹織業 / 1款 京都織物株式会社 【第10巻 p.578-597】

明治維新後、首都機能の東京移転で活気を無くした京都府は、産業復興のため海外から技術者を招聘、また海外へ伝習生を派遣して、先端技術の獲得に努めました。京都織物会社は海外で染織を学んだ技術者や京都の政財界人らによって1887(明治20)年に洋式設備を備えた絹織会社として創業しました。
渋沢栄一はその設立を支援、設立以後も相談役、取締役会長等を歴任して同社経営に関与しています。

  • 1887(明治20)年 創立発起人 (名義は渋沢栄一代理「熊谷辰太郎」名)
  • 1887-1891(明治20-24)年 相談役
  • 1891-1893(明治24-26)年 委員/委員長
  • 1893-1900(明治26-33)年 取締役会長
  • 1900-1904(明治33-37)年 取締役 (病後、事務縮減のため辞任)
  • 1905-1909(明治38-42)年 株主総会の懇請決議を受けて相談役に就任

渋沢栄一伝記資料』第10巻p.551には同社創立の意義について、『渋沢栄一伝記資料』編纂者による解説が次のように記されています。

○京都織物会社ハ、当時明治十年代ノ末ヨリ二十年代ノ初頭ニカケテ簇生セル諸会社(明治十四年―十八年間深刻ナル不況、十九年ヨリ好況時ニ向ヒ諸産業俄ニ起ル)ノ内ニテモ織物業方面ニ於テハ劃時代的ナルモノナリ。
恰モ栄一ノ発起創立セル綿糸紡績業部門ニ於ケル大阪紡績・三重紡績会社ガ当時新興ノ日本産業界ニテ革新的ナモノタリシガ如シ。即チ当会社ガ従来ノ伝統的手工業的織物業界ニ在リテ、而モ手工業的織物業ノ本場ナル京都西陣機業地ニ洋式織物機械製造ヲ標榜シテ創立セルハマコトニ劃期的ナリト云フヲ得ベシ。即チソレガ第一ニ株式資本組織ニヨレルコト、第二ニ新式機械生産ニヨレルコト、第三ニ新時代ノ洋風衣類ノ需要ニ大量的ニ応ゼントセルコト等ニ因レルガ故ナリ。
服部之総・信夫清三郎著「明治染織経済史」ハ此京都織物会社ノ創立ノ意義ヲ評価シテ次ノ如ク記セリ。「ところで此原生的産業革命の行進曲の最中からりようりようと産業革命の序曲を吹奏しつゝ立ち上つたものは『織殿』のゆたかな遺産を受ついで明治廿年民営会社として結成された京都織物会社であつた。而もそれは単に西陣機業の産業革命を告知するものでなく、実に当年の日本機業の大産業化を宣言せんとする意図をもつて生れ出たものであつたと云へる。」(昭和一二年刊、第三五三―三五四頁)―傍点筆者―ト。此著書ノ斯ル評価ノ一ヲ以テシテモ当会社ノ歴史的意義ノ大ナルヲ察シ得ヘシ。
(『渋沢栄一伝記資料』第10巻p.551)

設立計画が起こった当初は鹿鳴館に象徴される欧化政策から洋生地需要が見込まれていたものの、実際に創立がなった1887(明治20)年には既に欧化の波は衰退、同社は早々に深刻な打撃を被りました。その後も不況など厳しい状況に遭遇しますが、堅実な経営方針と新素材製織で同社は海外への絹織物輸出にも貢献、事業を拡大しました。
しかしながら戦後は経営が悪化、1968(昭和43)年に会社は清算となり土地や建物は京都大学に売却されました。
参考:[社史紹介(速報版)] 『京都織物株式会社五十年史』 【京都織物, 1937】
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年9月11日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090911/1252634115
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 蚕糸絹織業 A (京都織物会社)
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/013.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 蚕糸絹織業A