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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1907(明治40)年5月24日(金) (67歳) 湖南汽船解散。渋沢栄一、清算人の一人に選ばれる 【『渋沢栄一伝記資料』第16巻掲載】

是日当会社臨時株主総会を開き、日清汽船株式会社へ合併のため解散を決議す。栄一清算人に選任せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 6章 対外事業 / 2節 支那満州 / 5款 湖南汽船株式会社 【第16巻 p.722】

湖南汽船とは、漢口から洞庭湖方面の揚子江支流を運航する汽船会社として1902(明治35)年9月13日に設立された汽船会社です。当時、揚子江を遡る長江航路は、豊富な資源と多くの人口を擁する内陸部への貴重なルートであり、貨物確保の重要拠点として清国船社のみならず外国船社も進出、定期航路を運航していました。湖南汽船に先立って揚子江に進出した日本の船社としては1896(明治29)年に揚子江下流の蘇州杭州の大東汽船(当時:大東新利洋行)、上海・漢口から宜昌に1898(明治31)年から1899(明治32)年にかけて航路を展開した大阪商船などがありました。
1901(明治34)年11月、渋沢栄一は東京会議所会頭として諸大臣に向け建議書を提出、航路拡張について次のように述べています。

第十一回東京商業会議所事務報告  第一一―一三頁 明治三五年四月刊
一 対清経済策ノ義ニ付、内閣総理・逓信・農商務・大蔵・外務五大臣ニ建議ノ件
[中略]
    対清経済策ノ義ニ付建議
今ヤ清国事変玆ニ一段落ヲ告ケ、平和ノ克復漸ク将ニ其緒ニ就カントスルニ方リ、対清経済策トシテ施設経営スヘキ問題一ニシテ足ラスト雖トモ、今差向其急施ヲ要スルモノヲ挙クレハ左ノ如シ
  一 清国河湖航運業拡張ノ件
  清国江河ノ沿岸、湖沼ノ周辺ハ、概シテ人口繁ク物産豊カナルノ地区タリ、然ルニ現在此等地区ニ於ケル旅客ノ往来・貨物ノ運搬ハ依然旧慣ヲ改メス、専ラ彼ノ脆弱小形ノ所謂「ジヤンク」ニ依ルモノニシテ、天与ノ良航路モ為ニ充分其用ヲ致ス能ハス、其ノ僅ニ汽船ノ航通アルハ長江下流ノ一小区域ニ過キサルナリ、清国内地ニ於テ人智ノ啓ケ進マサル、物産ノ競ヒ出テサル、真ニ以アリト謂フヘシ、此際我国人ニシテ清国内地ノ河湖ニ就キ適当ナル航路ヲ撰ンテ汽船航運ノ業ニ従事スルトキハ、依リテ以テ彼我経済上ノ利源ヲ開発シ、彼ノ地ニ於テ我カ勢力ノ根抵ヲ堅実ナラシムルヲ得ヘキナリ
[中略]
右本会議所ノ決議ニ依リ建議仕候也
  明治三十四年十一月八日
          東京商業会議所会頭 男爵 渋沢栄一
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第21巻p.709-710掲載)

湖南汽船は大東汽船の白岩竜平、日本郵船の加藤正義らが中心となり、大阪商船の中橋徳五郎や大倉喜八郎など財界有力者も加わり、1902(明治35)年9月13日に発足しました。
翌1903(明治36)年、日本郵船は上海・漢口間に航路を開設、これにより長江航路には大東汽船、大阪商船、日本郵船、湖南汽船の四社が分立することになりました。政府は分立による日本の船社同士の競合を避けるため、航路統一を図るよう各社に出資合同を勧告、1907(明治40)年4月には四社合併により日清汽船会社が誕生することとなりました。
1907(明治40)年5月24日、湖南汽船は臨時株主総会を開催、正式に解散決議がなされました。設立以来わずか5年足らずのことでした。
渋沢栄一は湖南汽船では相談役、日清汽船では取締役としてそれぞれの経営に関与しています。
参考:渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 海運 C (湖南汽船)
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/039.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 海運C
 

参考文献