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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1901(明治34)年7月5日(金) (61歳) 渋沢栄一ら、大蔵大臣および官僚を銀行倶楽部に招待 【『渋沢栄一伝記資料』第6巻掲載】

是より先、大蔵大臣曽禰荒助栄一等銀行業者を招きて新任の挨拶を為す。是日栄一等曽禰及び大蔵省総務長官阪谷芳郎等を銀行倶楽部に招待して答礼す。栄一演説して政治を主とし実業を従とせる旧習を更革せんことを希望す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 1章 金融 / 1節 銀行 / 6款 択善会・東京銀行集会所 【第6巻 p.516-520】

1901(明治34年)5月、予算編成をめぐる内閣不統一で第四次伊藤内閣は総辞職、6月に桂太郎を首相とする第一次桂内閣が発足、曽禰荒助(そね・あらすけ、1849-1910。政治家)が大蔵大臣に就任しました。
政権交代にあたっては、当初井上馨を首相とする内閣が計画され、渋沢栄一は大蔵大臣就任を委嘱されました。しかしながら栄一は入閣を好まず依頼を謝絶、井上馨も就任を辞退したため、井上内閣は実現に至りませんでした(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.589-595)。
曽禰蔵相就任挨拶の饗宴への招待を受けた渋沢栄一をはじめとする銀行家は、返礼として1901(明治34)年7月5日、蔵相のほか阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941。後に大蔵大臣、東京市長貴族院議員を歴任。渋沢栄一女婿)ら大蔵省官僚を銀行倶楽部に招待しました。その席上で栄一は銀行家を代表して大蔵省への要望を次のように述べています。

銀行通信録 第三二巻第一九〇号・第三四九―三五二頁〔明治三四年八月一五日〕
    銀行家の大蔵大臣招待
曾禰大蔵大臣は去る六月下旬銀行家の重立ちたるもの十数名を大蔵大臣官舎に招き饗宴を張りしが、[中略] 宴酣なる頃渋沢男爵は起て左の挨拶を為したり
[中略]
  第一に申上げたいのは、是から先大臣閣下は勿論御本省でお採り下さる財政は民間の経済と云ふものに成るべく密着せられむことを希望致します、[中略] 未来の財政に対して、経済と云ふものに重きをお置き下さることとは堅く信じて疑ひませぬ、[中略] 日本の従来の有様を考へて見ると、どうしても政治が主に立つて、実業が従になつて経営し来つたと云ふことは掩ふべからさる事実であるから、是から先何時までも此姿を持続して往く時は、国の真正の発達を望む上に於て、少し途行が違ひはせぬかと思ふのであります、であるから、是から財政を執るには国の形勢如何と云ふことをお考を願ひたい、[中略] 主眼を経済の点に御注ぎあらむことを願ひたいと思ひます
  次に申上げたいのは、官民協和の事であります、御本省と我々銀行者との間柄は唯今までも御懇情を受けて居りますが、新聞などでは往々官尊民卑と云ふことを誹謗的に申して居る、けれども我々は左様な事を以て不足らしうは申しませぬ、併し総て風習を論じて見たならば、幾らか他の国に比較して、其風習の存在して居ると云ふことは言ふに憚からぬと思ひます、今までの大臣閣下も其弊を去ることに努められた事と信じて居りますが、尚ほ未来に於て此点に御注目あらむことを願ひたいのであります
  もう一つ申上げたいのは、[中略] 近来余り法律づくめになつて、物が鄭重に失すると云ふ点が段々に膨脹して参りはせぬかと思ひます、[中略] 法治国と成つた日本が法律を粗略にして宜しいとは申しませんが [中略] 一寸しても是が法律に適はぬと、法律から国が出来、法律から人間を造り出すやうに行き走りはせぬかと気遣ふのであります、国の政治を重んじ、財政経済を尊ふ以上は、無用の法律は之を減ぜしむるやうに御心配を願ひたいと考へます
  種々申上げたい事もございますが、[中略] それ等の事に就ては方針の御示しを願ひ、更に陳情致すこともございませう
  今日は誠に喜ばしい紀念日でございます、其日に何やら今までの有様に不足ある如き意味を以て陳述致すのは、甚だ憚ることではございますが、是は心事を吐露して陳情致す儀とお聴取を願ひたいのであります、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第6巻p.516-518)

また曽禰大蔵大臣、阪谷大蔵省総務長官からは返礼スピーチとして銀行家への要望が次のように述べられました。

次に曾禰大臣は左の演説を為したり
[中略]
  此倶楽部員の方々は素より楽を倶にするお方に違ひない、楽を倶にしたいことは今日まで充分成し遂げられたでございませう、併し私の冀望する所は決して単一に楽を倶にすると云ふことだけではございませぬ、寧ろ苦を倶にして貰はなければならぬと考へます、近来情けないことは銀行の破綻であります、実に情けないことでございますが、若しも此破綻より前からして所謂苦楽を倶にする所の精神を充分実地に行つて居つたならば、真逆今日のやうな不都合は生じなかつたであらうと思ひます、故に此後は銀行員諸君に於きましては、何卒単に倶楽部と云ふ事の考よりは、苦楽を倶にすると云ふことを始終忘れぬやうにして貰ひたい、若しも苦を倶にすることになりましたなら、総ての事が円満にならうと思ひます、楽だけの友は何処にもございますが、どうぞ苦の友と云ふことを今一ツお加へ下さることを希望致します [中略]
次に阪谷総務長官は左の演説を為したり
[中略]  先刻会長の御演説の中に財政と経済と云ふことに就てお話がございましたが、欧羅巴の言語で財政と申しますと「フイナンス」、固より民間の経済の事を包含して居ります、従来大蔵省の方針としても決して会長の言はれた、経済を別にして政府の財政 [中略] 即ち政府の会計のみを主とすることはございませぬ、併ながら [中略] 政府が主としてやつて居りますので、民間の経済と官の財政とを二様に分けて、政府の会計を主として居る如くお考になるは無理ならぬと思ひますが、「フイナンス」を扱ふ処の大蔵省に於て此二者の区別を立てる道理がない、元来政府の会計と云ふものは、民間の経済から生じますもので、元が涸れゝば即ち其取るべきものゝ欠乏を来すのは明白であつて、此民間の経済と政府の会計とは隔別しやうと思つても、隔別し得べからざるものでございますから、将来に於ても此方針を採る考でございます、即ち大蔵大臣が楽を倶にするのみならず苦を倶にすると云ふ言葉も或は此意味であらうと存じます
  それから官尊民卑の弊がある云々と云ふお言葉がありましたが、其事も我々共はさういふ考を懐きませんのみならず、実際に於て努めて居る考でございますが、此度事務長官を拝命したに就ては、従来御不満足に感ぜられた点は之を直して参りますことを努めるのみならず、成るべく民間の経済上に於て地位名望を有し智識を有せらるる処の人が、財務の方に充分近寄られて、政府が施政の方針を決定する処の材料を、我々の耳目に達するやうせられむ事を希望致します、[中略]
  会長閣下はモウ一ツお望みになつた、夫は法律の弊と云ふことでありましたが、成程法律は実際の必要よりも余分であると云ふ嫌があるか知れませぬ、それ等も国の発達と共に国の事情に適するやうにならうと存じます、其事は独り大蔵省許の関係ではございませぬが其に就ては事務官として充分其心を有つて居たのでございますが、将来に於ても益々其考で進行致す考でございます [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第6巻p.518-520)