情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1908(明治41)年7月12日(日) (68歳) 渋沢栄一、克己学寮の寮生、監督者らを鮎漁、晩餐会に招待 【『渋沢栄一伝記資料』第29巻掲載】

日栄一、克己学寮の監督者・温習教師・寮生及び親戚其他を招き、立川に至り、多摩川に於て鮎漁を催し、終つてその夜帝国ホテルに於て晩餐会を開く。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 3部 身辺 / 1章 家庭生活 / 3節 家庭教育 / 1款 克己学寮 【第29巻p.179-181】

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
七月十二日 晴夕雷雨 暑
午前七時起床、入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後来人ニ接ス、午前九時家ヲ発シ、[中略] 汽車ヲ下リテ立川亭ニ抵リ、蓋シ此日ハ克己学寮生徒及親戚共ニ多摩川ニ於テ鮎漁ヲ催シタルニヨリ、立川亭ヨリ徒歩シテ水辺ニ抵リ、終日舟中ニ於テ遊戯シ、午後五時立川ヲ発シ、七時飯田町ニ抵リ、夫ヨリ人車ニテ帝国ホテルニ抵リ夜飧ス、食卓上一場ノ訓示演説ヲ為シ、夜十一時散会、王子ニ帰宿ス
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.179)

克己学寮とは、1908(明治41)年に渋沢栄一が三男武之助、四男正雄、五男秀雄の学習のために設けた寄宿舎です。寮には栄一の子息らのほか、学友として4人の学生が同居、監督役は東京貯蓄銀行青山支店長の横山徳次郎(1869-1944)が勤めました。
渋沢栄一伝記資料』第29巻p.179-180には「克己学寮」について、栄一の五男渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984)が甥の阪谷俊作(さかたに・しゅんさく、1892-1977。阪谷芳郎次男。『渋沢栄一伝記資料』編纂員)に宛てた書簡の再録により、次のように紹介されています。

渋沢秀雄) 書翰  阪谷俊作宛 (昭和三三年)六月二七日
                    (阪谷俊作氏所蔵)
拝復「克己学寮」がはじめて設けられた土地は青山で、善光寺(戦災後小さく再建されています。)から電車通りを少し都心の方へいつた、善光寺と同じ側にありました。当時たしか青山南町六丁目といつたように覚えていますが番地は忘れました。明治四十二・三年ごろ、関倭文雄君から貰つた葉書に「赤坂区山北町五ノ四〇横山様方渋沢秀雄様」と書いてあるところを見ると、あるいは克己寮も北町だつたのかもしれません。しかしそのころ、われわれの監督者だつた横山徳次郎先生が、貯蓄銀行の青山支店長として、銀行裏の舎宅に住んでおられた関係上、学寮も電車通り一つ隔てた借家が選ばれた訳です。したがつて、銀行は青山北町五ノ四〇所在、学寮は南町六ノ何番地だつたとも考えられます。武之助・正雄、そして私の学友は、遠藤柳作・篠原三千郎・蘆田均(以上帝大生)・帰山教正(高師附属中学生)の四氏でした。この寮は明治四十年か四十一年ごろに出来たものです。私の記憶を確かめるために、明治四十三年二月十六日に書いた私の旅行記を見ますと、自序に「……明治四十一年の四月一日青山の克己寮々生が試験后ののどけさに、飄々乎として出かけた旅を、二年あとから思ひ出して書いたものだ……」とあり。序文の最后に「明治四十三年二月十六日小石川なる克己学寮に於て」と書いてあります。そして別に「一行、遠藤柳作氏・蘆田均氏・篠原三千郎氏・帰山教正氏」のほかに二人の兄の名が記してあります。明治四十一年の九月から、正雄は一高の寮にはいりましたから、克己寮を出ている訳です。私のおぼろげな記憶によると、学寮が小石川白山御殿町(番地は忘れました。白山御殿町にあつた横山徳次郎先生のお宅から、一・二町も原町の方へいつたところでした。)へ移つたのは、四十二年か四十三年のはじめごろではないかと思います。移転の理由は、横山先生が、青山支店長から他の地位に移られ、御自宅から通勤されることになつたためだろうと想像されます。さて白山御殿町(多分御殿町だつたと思います)へ移つてからの学寮は、学友に篠原さん・蘆田さん(遠藤さんは大学を卒業して、巣立たれたと思います。)それに帰山さんも引きつづいていたような気がします。ほかに矢島猛男(たけおの字は違つているかも知れません。)さんという当時の蔵前高工の学生がきました。これは私の一高受験に備えて、特に数学の勉強を見てくれた方です。そして兄の正雄は入寮中でいませんでした。兄の武之助がときどき克己寮に来ていたような記憶があります。過去への散歩が面白くなつてクダクダ書きました。乱筆不文おゆるし下さい。
  六月二十七日                  秀雄
    阪谷俊作様  硯北
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.179-180掲載)

  • 横山徳次郎
    岐阜県藤九郎の二男。明治三四年東京高等師範研究科卒。岐阜中学教諭より文部省図書編纂委員となり転じて渋沢家の家庭教師となった。同四〇年東京貯蓄銀行青山支店長を勤務、爾後、石川島造船、浅野小倉製鋼等の重役となった。明治二年(一八六九)―昭和一九年(一九四四)
    (『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.630掲載「宛名人名録」より)
     

参考:1909(明治42)年8月18日(水) 渋沢栄一渡航前日の様子
〔「渡米実業団」日録 - 1909年8月18日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobeijitsugyodan/19090818/1251728960