是年六月二十九日、当校校長手島精一が多年工業教育に尽瘁せる功労により、特に御沙汰書を以て銀盃一組を下賜せられたるを慶祝し、是日当校に手島校長款待会開催せらる。栄一発起者の一人として其式に臨み、頌辞を朗読す。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 4章 教育 / 1節 実業教育 / 6款 其他 / 9 東京高等工業学校 【第26巻 p.806-810】
東京高等工業学校(1881年東京職工学校として設立、1890年東京工業学校に改称、1901年より東京高等工業学校)は1906(明治39)年5月26日に創立25周年を迎えました。翌6月29日、同校校長手島精一(てじま・せいいち、1849-1918)に対して明治天皇から長年工業教育に尽力した功績により天盃が下賜されました。
続いて7月20日、渋沢栄一は実業界有志らとともに手島精一の栄誉を祝して款待会を開催、頌辞を朗読しています。
東京経済雑誌 第五四巻第一三四七号・第一七五―一七六頁 明治三九年七月二八日
○手島校長款待会
東京高等工業学校長手島精一氏は、曩に畏き辺より御下賜品あり、又皇太子殿下の同校に行啓あらせられ親しく実況を御覧ありしは、単に校長たる手島氏の栄誉に止まらず、我実業界の名誉なるを以て、乃ち曾我子・渋沢男・大倉喜八郎・近藤廉平・浅野総一郎等諸士、朝野知名の人士五十名の主唱により去二十日を以て、手島校長款待会を同校に開けり、来会者は西園寺首相・牧野文相・林外相・松岡農相、松方大隈両伯、榎本・曾我の二子を始め、約七百余名に達し、式開かるゝや渋沢男爵は来会者に会釈し、手島校長を頌するの辞を朗読せり、其辞に云く
維時明治三十九年七月廿日、東京高等工業学校に於て、校長手島精一君の為めに款待会を開催し、以て其事業の偉大なる、其感化の深厚なるを表彰し、広く之を天下に公にし、永く之を教育界に貽さんとす
手島君は先見の明ある士なり、[中略] 明治九年偶々官命を奉じて米国を巡視し、国家他日の急務は工業に在るを看破し、[中略] 君が精神気力を集注して事に工業教育に従ふに決せし機は、方に此時に在り、其先見の明は明治十四年職工学校の設立を告ぐるに於て一着歩の功を奏せり、[中略]三十年已前に於て既に三十年已後の為めに工業の苗種を栽培して以て今日あるを予期せしは、先見の明あるの士に非らずして何ぞ
手島君は修養の徳ある士なり、[中略]、其徳以て同人に接し、後進に対す、故に人皆之を仰ぐ、[中略] 而して感化力は、修養の徳より胚胎し来る、所謂手島奨学資金は、有志の紀念品贈与の挙に出でたるも、辞して肯て受けられざるを以て、此題名の下に寄附と為り、奨学金寄附の権輿を為せる、亦以て其一斑を徴すべし、修養の徳あるの士に非らずして何ぞ
手島君は忍耐の力ある士なり、事を成す忍耐に在り、社会の風潮封建の遺風に泥み、実業を卑しみ顧みるものなきの日、独自信を重じ第一・第二次徐歩本校の規摸を拡張し、[中略] 以て今日の本校校舎を現出し、猶其設備の完全を致すのみならず、常に中外工業の状態を洞察し、其趨勢を考量し、之に応ずるの施設に務むるも亦少経費を以て良結果を収むるに留意し、急進の事業上に績を奏せざるに鑑み、百般の事業漸進主義を執り、遂に今日の盛を事業上に現出す、忍耐の力あるの士に非らずして何ぞ
手島君が鋭意職に当りてより、職工学校は一たび東京工業学校と改まり、二たび東京高等工業学校と革まる、其校名同じからずと雖も其実質に於ては終始一貫工業優越を目的とし、次第に上進し次第に発展し、業既に二千五百有余の卒業生を出し、朝野到る処各其務に服し、著々奏効の緒に就き需要に応ずるに足らざるの形勢なりと謂へり、其之を馴致するは江淮漢の斉しく海に注ぐが如く、手島君の勲労に外ならざるなり
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻p.806-807掲載)
参考:【IV】手島精一先生について - 蔵前工業会創立100周年記念講演(遠藤卓朗)
〔東工大クロニクル-No.408(2006.03)〕
http://www.titech.ac.jp/about/introduction/html_chronicle/408/408-4.html