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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1911(明治44)年8月21日(月) (71歳) 渋沢栄一、恩賜財団済生会の顧問となる 【『渋沢栄一伝記資料』第31巻掲載】

日栄一、当会顧問に嘱託せられ、翌二十二日同じく評議員となり、爾後屡々評議員会に出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 1章 社会事業 / 4節 保健団体及ビ医療施設 / 3款 恩賜財団済生会 【第31巻 p.84-91】

1911(明治44)年2月11日、施薬救療事業のため皇室より150万円の資金が下賜されました。それをもとに同年5月30日、財団法人済生会(済生=生命を救うこと)が設立されました。渋沢栄一は同会設立にあたり、世話会の一員として関与、またその寄付金勧誘の件で頻繁に首相官邸に出向き協議をしています。
その後8月21日には勅裁により総裁に伏見宮貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう、1858-1923)、会長に桂太郎(かつら・たろう、1848-1913)、副会長に平田東助(ひらた・とうすけ、1849-1925)が就任しました。渋沢栄一山県有朋(やまがた・ありとも、1838-1922)、大山巌(おおやま・いわお、1842-1916)ら10人の顧問の一人として嘱託されましたが、22日には評議員に就任し、1916(大正5)年5月30日の済生会病院開院式にも出席、演説を行っています。
渋沢栄一伝記資料』第31巻p.60-92掲載の「恩賜財団済生会」の項には、下賜発表翌日に新聞記者に語った感想や、渋沢家同族会議において済生会に10万円の寄付を捻出するため各家に倹約を命じたことなど、さまざまな資料からの再録として栄一と済生会との関わりが紹介されています。

竜門雑誌  第二七四号・第一八―二二頁 明治四四年三月
    ○恩賜奉答の途 (青渊先生)
 本篇は青渊先生がやまと新聞記者の請ひに応じて語られたるものにて、二月下旬の同紙上に連載せるものなり
如何にして聖意に副はんか、過る十一日桂首相が難有き思召を蒙り、御内帑金百五十万円御下賜の御沙汰を拝戴せしに付ては、如何なる感想を抱くかと云へば、余は今故らに自己を吹聴する次第にあらざるも多年細民恤救の事に従ふと共に、無辜の窮民にして疾病に罹り治療を受けざる者に対しては、隣保相助けて斯る窮苦を受けしめ間敷ものなりとの考へを抱けり、[中略] 然れども余は大富豪と云ふに非ざれば、一個人にして病院を建築する事、又慈善事業を起すが如きことをせざるも、自己財政状態の許す限多年諸種の慈善事業に対し応分の出資に吝かならざりし者なり、[中略] 恩賜金を悉く施薬救療にのみ費すべきか、[中略] 斯る機会に接したる桂侯を始め政府当局者が、聖恩の優渥なるに感奮して大に力を尽し、又た世の富豪にして聖恩に感泣し出金を托せば、一個の財団法人を組織し貧困者を救済するも可なりと信ず、若し折角の尊き御思召を単に施薬救療のみに止むるに至らば、或は聖意の存する処を有功に貫徹し兼ぬるやも知れずと思惟す [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.60-62掲載)

(八十島親徳) 日録  明治四四年     (八十島親義氏所蔵)
五月三十一日 晴
○上略
夕五時ヨリ王子ニ於テ同族会開会、済生会ニ約十万円ノ寄付ハ必要ト思フ、向後各家収入減ヲ覚悟シ、家計費ニ節約ヲ加ヘ、事実ニ於テ節費喜捨ノ目的ヲ果ス事必要ナリト訓諭セラル ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.73掲載)

雨夜譚会談話筆記  下・第七四八―七五一頁 昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十七回 昭和四年十二月二十四日 於渋沢事務所
    (二) 恩賜財団法人済生会と先生との御関係に就いて
先生「済生会の創立の事は覚えてゐるヨ。但し創立後の経営には大して直接の関係を持たないから、此方面の事は知らない。」
渡辺「現在、子爵は済生会の顧問として御関係があるのみでございます」
先生「そうかネ。何でも事の起りは、桂さんが総理大臣を罷める少し前(註、明治四十四年二月十一日)骨折つて、帝室から百五十万円の御下賜金を戴く事になつた。それについて民間からも醵金をしてこれを以て社会事業を起す計画を立てたので『醵金にはお前が出て一つ尽力して呉れ』と、桂さんが私に頼まれたので、私も『おやりなさい。此際金持から金を蒐めて社会事業をお起しになる事は、至極賛成です』と引受けて、尽力した。その時、大倉氏に百万円出させた。何でも大倉氏は加減が悪くて引籠つて居つたから、私は病床に行つて薦めたヨ。三井・岩崎も、大倉が百万円出したらと云つて各百万円寄附する事になつた。それから峰島キヨ(?)と云ふお婆さんにも薦めに行つたら『外の人なら何だけれども、渋沢さん御自身でお出でになつたのだから……』と云つて五万円寄附したヨ。」
篤 「峰島のお婆さんが五万円出すなんか余程の事でございますネ。[中略]」
先生「その時は、寄附金募集については相当尽力したヨ。総額で二千万円ばかり蒐まつたと思ふ。然し実務について、理事とか監事とかに立つた事がないから、その方面の消息は知らない。」
[後略]
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・渋沢元治・渡辺得男・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.83-84掲載)

参考:創立とあゆみ
済生会の歴史 - 社会福祉法人 恩賜財団 済生会
http://www.saiseikai.or.jp/saiseikai_wdm/html/history/89989051857.html