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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1920(大正9)年8月22日(日) (80歳) 渋沢栄一、耕牧舎の実地検分のために箱根・仙石原を訪れる 【『渋沢栄一伝記資料』第54巻掲載】

是より先、当舎は、当所の目的たりし牧畜業及び之に附随の牛乳販売等の事業を廃し、僅かに植林及び玉蜀黍等の耕作により、其土地を維持す。是日栄一、益田孝と共に、実地検分をなす。
昭和三年七月、其土地を以て仙石原地所株式会社設立せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 5章 農・牧・林・水産業 / 1節 農・牧・林業 / 3款 耕牧舎 【第54巻 p.187-202】

耕牧舎とは、渋沢栄一益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)らとともに箱根仙石原に興した牧場で、当初は牧羊を目的としていましたが、羊の育成が不調であったため、創業間もなく牛馬育成へと軌道を修正、以後は牛乳バターの販売が営業の中心となりました。
一時期は箱根だけでなく東京への販路を広げ、『東京牛乳名家一覧』という番付表の「大関」に名を連ねたこともありましたが、仙石原での牧場経営は容易ではなく、開拓運営の中心者であった須永伝蔵(すなが・でんぞう、1842-1904)の他界を機に耕牧舎は1904(明治37)年に牧畜を中止、以後は細々と植林等により土地の維持をしていました。
1920(大正9)年8月22日、渋沢栄一は益田孝とともに仙石原を訪れ、耕牧舎の実地検分を行いました。『渋沢栄一伝記資料』第54巻p.188-190にはこの日に栄一が詠んだ即興詩に関連して、栄一秘書役の白石喜太郎(しらいし・きたろう、1888-1945)による回想が『竜門雑誌』に次のように紹介されています。

竜門雑誌  第五七五号・第一―七頁 昭和一一年八月
 ○青渊遺芳
    青渊先生の『仙石原即事』
                    白石喜太郎
  原頭正好雨晴時。展望何嫌落照移。蓮岳高臨乱山聳。宛看慈母護群児。
青渊先生が大正九年に箱根仙石原を最後に訪はれたときの即興詩で、『青渊詩存』に収められてあり、それには次の序が付いて居る。
[中略。序は後掲]
 大正九年には青渊先生の詩作が極めて少く、年頭書感の作が一首あるのみで、此点からも、この仙石原即事は珍重すべきものであるのみでなく、恐らくこの時が仙石原最後の訪問であつたらうと推察せられる点に於て、意義深きものがある。[中略] 青渊先生が別の機会に話されたものがある。それはこの年八月下旬、修養団が仙石原で天幕講習会を開いたことに関する談話の中にある。それは
  『この会場を設けた土地は、私と益田孝君の所有で、明治十三年に神奈川県から払ひ下げたものであります。私は商工業を進めねばならぬと主張して来ましたが、それと同時に必要な事は又共に進めねばならぬ、例へば牧畜の如きも出来る丈進めたいと云ふ考から、この仙石原の約七百町歩を牧場として牛馬を飼ひ、明治三十七年迄二十余年間苦心経営したけれども、地味が適せぬ故か、方法が悪かつた為か、遂に不成功に終つた。私の従弟須永伝蔵氏が主任として専らその経営に当つて居たが、不幸中道にして逝き之に代るべき適任者も無かつた為め、牧畜業を中止し、植林を企てゝ見たが、之も地味に適応せぬかして、十分の結果を見て居ない。そんなことで初めに払下げた土地の半分は仙石原村に寄附したが、其残りは何かに利用したいと考へて居ります。二三日中に益田君と実地検分して方法を立てる積りであります。将来は箱根の勝地にも対し(マヽ)たいと思うて居ります。』
と云ふのであるが、之によると仙石原将来の計を樹てる為であつたことが明かである。それならば担当者故須永氏が逝いて後約十年を経た此年に何故に将来の事を計る必要があつたか、これに付ては記録の徴すべきものはないけれども、恐らく八十島親徳氏の長逝が其原因ではなかつたらうか、と云ふのは須永氏の歿後耕牧舎清算事務を担当したのが八十島氏であつて、青渊先生の談話に結果の見るべきものがないと言つて居られる植林は、氏の指導監督の下に実施せられたのであるが、大正九年は植林開始後三・四年を経過した時の事で、先生は見た儘を率直に言はれ事実又正に其通りであつた。のみならず此年の春は甚しい雪害を受け其補植に多大の費用を要したので、其事を聞かれた先生がかく述懐せられたのは当然である。然し其後幸に順調に発育し現今では、元耕牧舎の後身とも見るべき仙石原地所会社の収入としてこの植林の間伐材の代金を計上し得るに至つたのである。同社の開放地仙石原温泉荘に遊ばるゝ人々が富士の雄姿を仰ぐ時、嫌でも目に入る長尾峠下一体の山林がそれである。[中略]
 動機に付ての穿鑿は此位にして、前の先生の詩の序に移らう。先生の『中央農舎』と記されたのは、旧耕牧舎本社の建物のことで、先生にとつては亡き須永氏を聯想する想出の家であり、[中略] 須永氏に付ては、嘗て先生がその遺影に題せられた詩がある。
  温容懐昔道相親。耕牧自修三十春。畢竟多能常敗事。
  欽君守一即全真。
 大正期以前の耕牧舎附近と云へば、荒涼たる高原であつた。唯見る白茅果てしなく、草より出でゝ草に入る太陽が、唯一の変化とも云ふべき状態で、『農舎』は文字通り山中の孤屋であつた。そこに三十年に近き歳月を此事業の為めに捧げた氏の忍苦と犠牲的精神に、真に頭が下がるのである。先生の詩は之を称揚したもので、泉下の氏も知己の感を深くしたことであらう。先生が代表的に表示せられたこの感慨は、須永氏の事を知り、又仙石原に関係あるものゝ、期せずして等しく感ずる所であつて、後に設立せられた仙石原地所会社に於て、氏の徳を表彰せんため記念碑を立てたのは其所であらう。[中略] 元へ戻り、また先生の仙石原即事の詩の序を見よう。
  已至。益田男先在。休憩霎時。共捨自動車。初ソ竹輿而発。路狭隘。且泥濘。而轎夫健脚如飛。能披草除ナ渉渓流。
 仙石原村の中央に近く、今乗合自動車の待合所のある辺で、益田翁は待つて居られたと云ふことである。此処まではどうにか自動車がきくが、之からは自動車どころでなく、人力車でも怪しかつた。この道は『イタリ新道』と称し、明治十三年耕牧舎開設のときに出来たもので、近年になつて、即ち先に記した須永氏の記念碑除幕式の時、仙石原地所会社の寄附によつて道路の改修を行ひ、碑の処までは自動車が通ずる様になつたが、其以前は草を分け、茨を払ひ、道なき道を辛うじて行く有様であつた。[中略]
 当時此行に加はつた辻内政次郎氏の追懐によると、生ひ茂れる草を分けて進む為、朝早くては置く露に駕籠をやることが出来ない為、人夫の出て来るのが午前九時頃、自然出発は九時半から十時頃になつたと云ふことである。如何に『草除ナを披く』ことが必要であつたか、推察に余りがあるであらう。斯様に人夫が遅出であつた為、『農舎』につかれたのは恐らく正午を過ぎた頃であつたらう。而して休憩をし、村長勝俣市五郎氏などと種々懇談し、又食事を摂りなどして、愈出発せられたのは、午後二時過三時に近い頃ではなかつたらうか。而して早川沿ひの道を、駕籠の上から可憐な秋草の花を愛でつゝ、空模様を気づかひながら、蘆の湖岸に出でられた頃は、夕空美しく晴れ上り、『群峰現巓。皆倒傷ー影於湖水。』絵の如き景色を十二分に味ひ、駕籠を捨て、『雨を帯び、色鮮を加へた草と之を点綴する紅紫の野芳』を楽まれたのであつた。而して興高まるままに、叙pに謂ゆる『仙石原即事』の七絶となつたのであらう。今箱根遊船会社専用道路と、そのかみあるかとも見えざりし俚俗『中道』即ち今の県道とに、間断なく往き交ふバス・トラツク・乗用車の警笛と砂塵に、日々に文化の影濃くなり行くを見られたならば、そのかみの草原に、紅・禄・灰、色とりどりの屋根の殖え行き、電灯の光の年毎に数多くなり行くを見られたならば、先生は如何に感ぜられるであらうか。『文化』の『自然』侵害に対し寛大であつた先生は、莞爾として『新仙石原即事』を物せられるのではあるまいか。
(『渋沢栄一伝記資料』第54巻p.188-192掲載)

青渊詩存  渋沢栄一遺著敬三輯 第三十二丁昭和八年刊
    庚申大正九年 八月余携家人避暑於函根小涌谷、寓鳳来楼、霪雨連日、四望濛濛、雖脱都門炎熱之苦、而無山光水色慰旅情者居数日、以其二十二日遊仙石原村、蓋践与益田男爵相仙石原野之約也、已至、益田男先在、休憩霎時、共捨自動車、初ソ竹輿而発、路狭隘、且泥濘、而轎夫健脚如飛、能披草除ナ渉渓流一時余、達中央農舎、与村長等議原野境界之事、已畢、進竹輿於蘆湖之畔、時薄暮、宿雨纔霽、雲烟半収、而群峰現巓、皆倒傷ー影於湖水、加之原草帯雨、色加鮮、而野芳紅紫、点綴其間美亦可愛、余等左顧右眄、以相楽、又呼竹輿登原上小邱時雲霧全収、蓮岳明潔、卓立眼前、而岳麓諸山囲繞之、宛然如群児擁慈母、真可謂奇観、偶得一絶
原頭正好雨晴時。展望何嫌落照移。蓮岳高臨乱山聳。
宛看慈母護群児。
(『渋沢栄一伝記資料』第54巻p.187-188)

かつて耕牧舎があった土地には、1928(昭和3)年7月に温泉付別荘分譲を行う仙石原地所株式会社が設立され、その敷地には今日でも須永伝蔵記念碑が残されています。耕牧舎については、『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.489-p529、第54巻p.187-202に掲載されています。
参考:[社史紹介(速報版)] 『箱根温泉供給社史』 【箱根温泉供給, 1982】
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年7月8日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090708/1246348977