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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 文久3年癸亥9月13日[西暦:1863年10月25日] (23歳) 渋沢栄一、父に志を語り家督を辞す 【『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載】

栄一既に身を以て国に殉ぜんと決意せしを以て是夜父に請ひて家督を辞せんとし、懇談夜を徹す。暁に至りて父遂に之を允す。尋いで翌十四日挙兵準備の為め江戸に出で月余にして帰る。是日急使を京都に遣して尾高長七郎の帰京を促す。栄一江戸滞在中偶々一橋家用人平岡円四郎等の知遇を受くるに至れり。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 1部 在郷時代 / 2章 青年志士時代 【第1巻 p.249-259】

尊王攘夷の思想から文久3年11月に高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画していた渋沢栄一は、それに先立つ同年9月13日、父である渋沢市郎右衛門(しぶさわ・いちろうえもん、1809-1871)に素志を語り、夜通しの懇談を経て、父の理解を取り付けました。栄一は明くる14日、決起準備のため家を出て江戸に向かい10月末に帰宅しています。
栄一は後に一橋家に仕官することになりますが、その仲介役となる平岡円四郎(ひらおか・えんしろう、1822-1864)の知遇を得たのはこの時のことでした。
渋沢栄一伝記資料』第1巻には、これらの出来事が渋沢栄一の回想として紹介されています。p.249-251には父との懇談に関する回想が『雨夜譚』からの再録として、p.258-259には平岡円四郎と知遇を得た経緯が『竜門雑誌』からの再録として、それぞれ次のように紹介されています。

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第二四―二八丁 〔明治二〇年〕
○上略 偖て段々と其時日の迫て来るに付けて、余所ながら父に決心の程を知らせたいと思つて、其年の九月十三日は、後の月見といつて、田舎では観月の祝ひをする例があるから、其夜、尾高惇忠と渋沢喜作の両人を、自分の宅に招いて、父も同席で世間話しをするうちに、それとなく自分の一身を自由にすることの相談を始めた、全体自分の企望する所は、父から此身を勘当して貰ふといふ覚悟であつたが、さればといつて、子が親に向つて、突然勘当して下さいともいはれぬものだから、先ヅ世の中の起き伏しから、話しのいとぐちを開いて、此天下は終に乱れるに違ひない、天下が乱れる日には、農民だからといつて、安居しては居られぬ、故に今日から其方向を定めて、乱世に処する覚悟をせんければならぬ、といひ出した所が、父は其話しを遮つて、それは其方の説が分限を越えて、謂はゞ非望を企てるといふことになる、根が農民に生れたのだから、ドコまでも其本分を守つて、農民に安んじたがよい、[中略] 時世を論ずるのは妨げはせぬけれども、身分の位置を転ずることは量見違ひだから、何処までも制止せむければならぬと謂はれたから、自分は押返して、成程父上の仰しやる所は一応御尤だけれども、[中略] イヤ論語には斯ういふことがある、孟子にはアヽいふことがあるなどゝいつて其問答は中々長いことで、終に夜が明けて仕舞つた、
勿論、自分は敢て議論がましく、無暗に父に反対して、高声に討論した訳ではなく、只諄々と論じて居る中に、夜が明けた、スルト父は思ひきりのよい人で、夜が明けてからモウ何もいはない、宜しい、其方は乃公の子じやないから、勝手にするがよい、段々の議論で時勢も能く分つたから、サウいふことを知つた上からは、其れが其身を亡ぼす種子になるか、或は又名を揚げる下地になるか、其所は乃公は知らぬ、好しや時勢が十分に知れても、知らぬ積りで、乃公は麦を作つて農民で世を送る、縦令政府が無理であらうとも、役人が無法なことをしやうとも、其れには構はずに服従する所存である、然るに其方は、それが出来ないといふなら仕方がないから、今日から其身を自由にすることを許して遣はす、夫れに付ては、最早種類の違ふ人間だから、相談相手にはならぬ、此上は、父子各其好む処に従つて、事をする方が寧ろ潔よいといふものだといはれて、漸く十四日の朝になつて、一身の自由を許されました、
此時に自分は父に向つて、[中略] 速かに自分を勘当して、跡は養子でも御定め下さいと申しましたら、父のいはれるには、今突然勘当といつても、世間でも怪しむから兎も角も家を出るがよい、愈ヨ出たのちに勘当したといふことにしやう、又養子の事は、其後でも遅くはないと思ふ、[中略] 併し是上は、モウ決して其方の挙動には彼是と是非は言はぬから、此末の行為に能々注意して、飽までも道理を踏違ひずに、一片の誠意を貫いて、仁人義士といはれることが出来たなら、其死生と幸不幸とに拘はらず乃公はこれを満足に思ふ、と教誡されたことは、今でも猶耳の底にあるやうに思はれて、話しをするのも、中々落涙の種子である、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.249-251掲載)

竜門雑誌  第四九八号・第二―三頁 〔昭和五年三月〕
○上略 抑初め私が例の暴挙の計画をした時代に江戸に往つたことがあるが、其時分に時折り平岡円四郎氏を訪れてゐた。[中略] 平岡氏は岡本近江守と云ふ何でも五千石かの旗本で立派な家柄の人の伜で其処から平岡へ養子に行つた人である。相当に学問があり曾ては評定所留役をも勤め、仲々弁説もさわやかで、人の揚足を取ることなどはそれはうまいものであつた。私を此平岡氏の所へ連れて行つて呉れたのは、川村恵十郎と云ふ人で、其の前に口上を以て紹介して呉れたのは柏木総蔵と云ふ人であつた。柏木は菲山代官江川太郎左衛門の手附であつた。川村は私と喜作と両人を平岡氏に引合せて「百姓育ちにしては、面白い奴だ」と、褒めた意味の言葉で紹介したらしく、其関係から文久三年の秋だつたと記憶するが、平岡氏が「一度連れて来い、会つて見やう」と云つたとかで、喜作と両人で行つたのが初まりである。川村の人物に就ては、此人は時勢を見て騒ぐと云つたやうな処はなかつたが今日の儘では済むものでない、早晩幕政の改革は行はれる位の事は知つて居つたやうに思ふ。私は此点に就て、まだ若年ではあつたが、日本外史などに教へられて「王政復古は当然来なくてはならぬ。幕政三百年にして人物は漸く低下し、其役に連る者は、お座敷勤め式の人が多くなり、気骨ある人は、却つて引込むと云ふ有様になつてゐる。此際此儘での推移は到底不可能である」と考へてゐた。平岡氏に初めて会つたのは、根岸のお行の松傍の平岡氏の屋敷であつた。前にも話したように此時は丁度私等は暴挙について密かに相談してゐる最中であつた。 ○下略
   ○右ハ『徳川慶喜公の知遇』ト題スル栄一ノ一節ナリ。
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.258-259掲載)

渋沢市郎右衛門
栄一父。同族宗助の三男。旧名元助。中ノ家を嗣ぎ、市郎右衛門と称し、又、市郎とも称した。諱美雅。号晩香。農業の他製藍を業とした。文化六年(一八〇九)―明治四年(一八七一)
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.611掲載)
参考:[今日の栄一] 文久3年癸亥10月29日[西暦:1863年12月9日] (23歳) 挙兵計画を断念
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2008年10月29日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20081029/1225242408