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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1927(昭和2)年9月23日(金) (87歳) 渋沢栄一、帰一協会例会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第46巻掲載】

是日及び十月二十六日、栄一、日本倶楽部に於ける当協会例会に出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 6章 学術及ビ其他ノ文化事業 / 1節 学術 / 7款 帰一協会 【第46巻 p.684-686】

帰一協会とは、「精神界帰一の大勢に鑑み、之を研究して之を助成し、以て堅実なる思潮を作りて一国の文明に資する」ことを目的に、1912(明治45)年6月20日に設立された団体で、渋沢栄一はその創設から関与、協会設立時より幹事を務めています。
渋沢栄一伝記資料』別巻第5には、雨夜譚会で栄一が帰一協会について語った内容が次のように紹介されています。雨夜譚会とは、渋沢栄一の回想談を記録するために栄一の嫡孫である渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)により企画された会のことです。

    雨夜譚会 第十九回
  第十九回雨夜譚会は昭和三年一月十七日午後四時半より丸の内事務所に於て開かる。出席者青渊先生、増田氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、係員岡田、泉。
[中略]
    一、帰一協会の成立に就て
先生。帰一協会に就ては少し話し度い事があるが、時間がないから此次にしよう。簡単に云つて見ると、成瀬仁蔵氏と森村市左衛門氏とが主となつて協会の組織を主張した。特に成瀬氏は新宗教をつくり度い考で、孔子教と云ふ名称までも云ひ出した程であつたが、宗教を組織する事は仲々の事で、到底我々の仕事でない。そこで西洋のコンコーディアをとつて来て帰一協会を組織した。併し実際やつて見ると是亦容易な事ではない。私は一々会に出て研究する事も出来ず、それかと云つて一旦作つた会を止める訳にも行かず、時々会に出て話をする位に過ぎない。之れは誠に首尾不徹底な事で、人から非難を受けても致方ない次第である。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.651)

    雨夜譚会 第二十回
  第二十回雨夜譚会は昭和三年一月二十四日午後一時半より丸の内事務所に於て開かる。出席者青渊先生、野口弘毅氏(第一銀行取締役)、増田氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、係員岡田、泉。
    一、帰一協会の成立に就て(前回の続き)
先生。恰度今日の午後四時から帰一協会に行つて、協会の成立に就ての私の感想を話さうと思つてゐる。併し会の成立に就ては、はつきりした記憶がないから詳しい説明は難かしい。唯此会が偶然に出来たものでないと云ふ事は云へる。主として森村市左衛門氏と女子大学の成瀬仁蔵氏とが力を入れて会を作る様になつたものである。私は森村氏とは多少趣味を異にしたけれども、同じく銀行業者として精神界に尽して見度いとの考が一致して居り、女子大学の発達に意向を共にしたと云ふ深い関係がある。森村氏は私をよく理解して、渋沢は単に世間に褒められようとか、時世になづむ人でないと信頼して呉れて居たし、私も此人はしつかりした信念を持つた人であると思つて居た。けれども私が初めて知り合つた時は未だ深い基督教信者ではなかつた。其後帰一協会の成立の時も未だ確乎たる宗教的信念はなかつたやうである。私自身は初めから宗教に頼らず、孔子の教を以て、是れなれば足ると堅く信じて居た。小にしては一身、一家を斉へる事が出来るし、大にしては一村、一郷、一国をも是によつて治められる。中庸の序に「之を放つときは則ち六合にち、之を巻くときは則ち退いてみつかくる」とあるが全く其通りである。森村氏は私と違つて儒教主義に拠らず、初め仏教にしようか基督教に頼らうかと迷つて居た。そして私の説を聞いて「貴方の説は尤であるが、単に人道は斯うだと云つたのみでは頼りない。アーメンとか、南無妙法蓮華経とかを唱へて初めて信仰が堅まる」と云つた。併し私は、太鼓を叩いてお題目を唱へる気持にはどうしてもなれない。申さば志士仁人はそんな盲目的に唯信ずると云ふことは出来ないのである。
 帰一協会組織の時は、成瀬氏等は新宗教を創り度いと偉い主張をなした。何でも仁義忠孝では宗教的に一切を包含したものでないと云ふのであつた。是れに対して大内青巒氏がひどく反対して「そんな突飛な事が出来るものでない。日蓮宗を起すにした所で、日蓮上人の苦心はなみ大抵のものではなかつた」と嘲弄的に反駁した。併し成瀬氏の云ふ所では「日蓮上人が日蓮宗を作つたに就て、其苦心のなみなみでなかつた事は認める。けれども上人は大して学問があつたとは思へぬ。此上人にして然りであるから、我々でもやつてやれない事はない」との事であつた。私は「精神的の事を事業と引離して論ずる時は誠に漠然たるものになる。宗教も政治界なり実業界に応用してこそ活きて来る。経済的観念のない宗教信者の働は頗るまだるつこい。又経済に従事する者が、それのみに傾けば、守る主義がなくなる。事業家が行往坐臥、常に信仰する事は出来ないにしても、大体の教旨を作り、それに拠つて信念を持つ必要がある。それにしても耶蘇や仏教や神でも困るから、儒教主義を根本として、一種の宗教を組織したら」との意向を持ち、之れを主張したが、賛成者も少くなかつた。その前に穂積(註、陳重博士)と話をした時、穂積は「形式のみでは駄目である。それよりも人は智識を進めると自ら利害得失が明かになる。利害が明かになれば善に移る事が出来る。唯無我夢中に一種の宗教を信仰する事は盲目的に陥り、却つて人をあやまらしめるものである」と云つた。私も其時は尤もだと云ふ感もしたが、更に進んで考へると、智識が進んで利害得失が判つたからとて、必ずしも善に進んで悪が少くなるとは限らない。或ひは却つて道徳を排斥するに至る。古人も云つた様に、智は以て悪を飾るに足るのである。それで人はどうしても何かの主義を建て、是れを守本尊としてやる事は必要であると考へるに至つた。
 帰一協会の方針は即ち一身の拠るべき道を講ずる事であつた。経済に従事する人も、道徳家も、あらゆる人々が各方面から一に帰すると云ふ意味から「帰一」と云ふ名を付けたのである。所が実際やつて見ると仲々容易な事でない。それで私は少くとも自分一身丈けでも、身を持するに過ちたくないと云ふ考に縮んで仕舞つた。然らばとて一旦組織したものを止める訳には行かない次第である。幸に姉崎正治氏が種々世話をして、今では宗教的団体でもなく、学問的研究の会でもなく、単に一種の相談会として存在してゐる始末で、私も滅多に顔を出さない。
野口。子爵の只今のお話では、帰一協会の方針は、経済からも道徳からも一に帰する様な守本尊を得る事に在る様に伺ひましたが、私の聞いた処では、あらゆる宗教を研究して其一致点を求めて、一に帰すると云ふ意味だつた様に思つて居りますが。
先生。或ひはさうだつたかもしれぬ。各宗教を研究して、動かぬ所を攫む事が理想であつたかもしれない。それには学者の大いなる研究を要するし、充分の時間もなければならないが、そんな事は望まれない。成瀬氏がそんな事を云つたが、それは全然不可能であると思つて居つた。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.652-654)

このほか、帰一協会に関する記事は『渋沢栄一伝記資料』第46巻p.406-730に掲載されています。
参考:[今日の栄一] 1912(明治45)年6月20日 (72歳) 帰一協会の成立
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2008年6月20日
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20080620/1213926955