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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1916(大正5)年9月27日(水) (76歳) 渋沢栄一、故郷血洗島の諏訪神社拝殿奉告祭に参列 【『渋沢栄一伝記資料』第41巻掲載】

当神社拝殿落成し、是日祭典当日を卜し、献納の奉告祭行はる。栄一参列して演説をなす。又同拝殿内に掲ぐる扁額を献納し、記念樹を境内に手植す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 4章 道徳・宗教 / 2節 神社[承前] / 2款 諏訪神社 (埼玉県) 【第41巻 p.464-472】

1916(大正5)年9月27日、渋沢栄一の故郷、埼玉県血洗島の諏訪神社で拝殿献納奉告祭が開催されました。この拝殿を造営寄進した栄一は、奉告祭に列席、演説を行っています。

竜門雑誌  第三四一号・第七三頁 大正五年一〇月
諏訪神社奉告祭 青渊先生の敬神の念厚きは今更喋々を要せざれども、先生は今年喜寿に達せられたるを機として、神恩感謝の意を表する為め、郷里埼玉県大里郡八基村字血洗島村社諏訪神社に拝殿を造営して寄進せられたるが、同村に於ては九月廿七日同神社祭礼当日を卜し、其奉告祭を執行したり。来賓として式場に参列したるは、青渊先生・同令夫人其他同族の方々にして、式は午前十時に開始せられ、先づ神官の進饌に続いて祭文朗読あり、次に清水組技師渋沢虎雄氏の建築に関する報告あり、それより先生を始めとし同族一同の参拝ありて式を終り、次で先生には拝殿の廻廊に起ちて社殿寄進の趣旨を述べ、且つ村民に対して益々敬神の念を厚うし、敦朴の風を養はれんことを望むとて、種々訓戒的演説を為されたり。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第41巻p466-467掲載)

渋沢栄一伝記資料』第41巻p.464-470には、この時の栄一の演説や式次第等が、p.470-471には拝殿建設に関する記事が、さまざまな資料からの再録として紹介されています。

横山虎雄談話筆記              (財団法人竜門社所蔵)
              昭和十二年十二月二十四日 於東京
              大森田園調布同氏宅 松平孝聴取
    諏訪神社拝殿設計に就て
 私は当時清水組の設計部に居りました。青渊先生は予てより郷里にある諏訪神社に拝殿を献納したいとの御希望を実現したいと、大正四年の或る日私と渋沢元治博士とをお呼びになつて、設計を依頼なさいました。それから私は元治先生の御指導を得て子爵の御期待に添ふやうに、色々古い日本建築を研究し参考資料を調べ、結局藤原朝時代風を取る事にし、規模に関しては元治先生とも御相談し大体決定したので、略図を子爵に示し御許を得たので、間違があつてはいけないと念を入れる為に、当時日本建築のオーソリチーたる伊東忠太博士に調べて頂きました。それを本図として木材(檜〓[ひば:木+屠]松等)を求め、深川木場にある清水組の工作場で木組をこしらへました。
 木組が出来上つたので、現場監督たる高橋俊太郎氏が血洗島に赴き同地に泊り込んで愈々基礎工事にとりかゝつた。基礎工事には子爵の関係された日本煉瓦会社から煉瓦の寄贈を受け之を使用しました。余り東京の者ばかりで事を運んでは同地の人達の気持が近づきにくいと云ふので、直接の監督には同地鳶職頭が之に当り、同地の人々が働いたのです。大工にも棟梁には土地の人を願ひました。
 こうして出来上つた拝殿に、子爵が何か揮毫を掛けると云ふことでしたので、建物に調和する額の大さを定め、事務所へ紙を二枚持参しました。それを木彫屋へまわして出来上つた訳です。
(『渋沢栄一伝記資料』第41巻p.471掲載)

なお、『渋沢栄一伝記資料』別巻第3 p.577には、拝殿寄進にあたり栄一が甥の渋沢元治(しぶさわ・もとじ、1876-1975。電気工学者)に宛てた手紙が掲載されており、そこには上記「諏訪神社拝殿設計に就て」を語った横山虎雄について「横山虎雄氏(旧姓渋沢)」と注釈がなされています。
 

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