情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1879(明治12)年10月13日(月) (39歳) 渋沢栄一、東京銀行集会所で海上保険の必要性を述べる 【『渋沢栄一伝記資料』第5巻掲載】

是より先、栄一海上保険会社役員益田克徳を衆に紹介し、同氏をして同社創立の主旨を陳述せしむ。是日栄海上保険を拡充し自他の営業を安全ならしむることの緊要なるを述べ、衆亦之に賛同す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 1章 金融 / 1節 銀行 / 6款 択善会・東京銀行集会所 【第5巻 p.627-630】

1879(明治12)年8月18日、渋沢栄一択善会(銀行家の同業者団体)の会合で東京海上保険会社の益田克徳(ますだ・かつのり、1852-1903)を紹介、益田は席上で海上保険会社設立の主旨を述べました。
その後、10月13日に栄一は、同じく択善会の会合で、海上貿易の安全を担保する海上保険の必要性を「今日の急務であり、荷為替請求があった場合にはつとめて保険に加入させ、自他の営業を堅固にするように」と説き、海上保険の普及を呼び掛けました。
東京海上保険会社とは、麝香間出伺(じゃこうのましこう:維新に功労のあった者に与えられた資格)の華族らが鉄道事業のために出資した資金をもとに、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835-1885)らの出資を加えて1878(明治12)年に設立された保険会社です。栄一は鉄道事業計画から関与、種々の事情により鉄道計画が頓挫した後にも資金の用途として海上保険会社の設立を進言し、海上保険会社の設立に尽力しています。
渋沢栄一伝記資料』別巻第5には、栄一が雨夜譚会で述べた海上保険に関する回想が次のように紹介されています。

   雨夜譚会 第五回
  昭和二年四月十二日午後五時より、飛鳥山邸青渊文庫に於て第五回雨夜譚会を開く。出席者は青渊先生を中心に法学博士森荘三郎氏、明石氏、敬三氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、岡田。
敬三。 今晩は森博士の御都合を願ひまして海上保険関係に付御話を願ふことに致しました。
先生。 海上保険の関係は大してありませんから余り御話することもないが、東京海上保険会社には多少力を致しました。東京海上華族の資本で出来たので、確か最初の社長は蜂須賀茂韶さんだつたと思ひます。私が世話をして創立したと云ふので其のお礼に色々のものを頂きました。茶器などをももらつたやうであります。
森。 あの時華族が寄つて鉄道事業を計画しましたけれども、それが中止になつて東京海上保険会社を創立することになつたやうに承知して居りますが。
先生。 その通りです。それを話すには大分前へ遡るが鉄道のことから申さねばなりません。明治初年に蜂須賀さんが倫敦へ行き、[中略] 所謂旧家が世に立つ有様を見るに、日本の旧大名などと異り国家の為に働いて居る。それにつけて日本の華族も何か国を発展せしめることに尽す必要がある。それには華族が寄つて鉄道を敷設するのがよいと書面で言つて来た。同じく旧大名でも旧幕時代の自ら仲間であつた向へ寄越した。それを受けた人々は、伊達宗城(此人は維新前政務に従事して居た人)、島津三郎(後和泉守と云つた人)、細川護美(熊本の次男で良之助と云つた人)、山内容堂(大名中での奇抜な人であつた)、又仲間にはならなかつたが、鍋島閑叟(此人は学問があつた)などであつた。此処に於て誠に尤だと云ふ所から旧大名が鉄道建設の計画を樹て、其の世話人として前島密と私とを委嘱した。[中略] そして愈毛利元徳伊達宗城池田慶徳、池田章政、松平春岳、松平頼聡、井伊直憲等の旧大名二十人程が発起者となつて、奥州へ鉄道を敷くことになつた。然し中々資本金が集るべくもなかつたので、私は「失礼ではあるが苦心して何百万円も資本を集めるより、横浜の鉄道を払下げてもらつたらよからう」とすゝめた訳である。[中略] 斯うして華族の鉄道経営の計画も順調に進捗して居た処、岩倉さんが明治七年頃、蜂須賀さんの云つて来たやうに奥州の鉄道を建設することが必要であると云ひ、新らしく岩倉さんが重な華族を説いて、十五銀行を設立すると共に其仕事を進めようとした為、華族も両方へ資金を出す訳に行かず、遂に横浜の方を [中略] 已むなく中止しました。其処で既に払込んだ金は返つて来たが、若し全部各華族へ返せば道具か何かを買つてしまひ死金になるであらうと考へられたので、何とか方法を立て此の金を世に生かして働かしたいと考へ、[中略] 此金を私がすゝめて海上保険会社に転用することとした。之が東京海上保険会社が出来た由来であります。[中略] 之は多少とも我田に水を引くやうなことになりました。其説明をするには租税のことを云はねばならぬ。以前には租税を穀物や塩等で納めて居り米は其中でも主なものであつた。私は米を年貢として公納するのはよろしくない、租税は必ず金納とすべきであると考へ、大蔵省に居た時分から頻に主張し其の素地をつくる様に努力したが、[中略] 明治六年末から七年へかけて愈金納となつた。そこで貢租の為に穀物を金にかへる、米も全部売る、地方では処分が出来ないから米を都会地へ運搬せねばならぬ。就ては運送中の危険を保険する必要があるとした。所謂荷為替は荷物を送り出すに際し之を担保として銀行から金を貸し、荷物が着くと金を払ふのであるが、万一着かないと銀行は損をする。そこで此運送の際に於ける破損の危険を保険することが必要であるから、海上保険を主張したのであります。当時一般には私が斯うして海上保険会社を主唱するのを嫌がつた。例へば福沢諭吉氏も「どうも余り進み過ぎて居る」と云ひ岩崎弥太郎氏も非難した。曾て雉橋に大隈侯の邸があつた時である、何かのことで招かれた。岩崎も福沢も来て居た。其時に海上保険の話をした。何でも私と福沢とで将棋をさしたことを覚えて居る。福沢は中々口が悪く「商売人にしては割合強い」と云ふから、私も「ヘボ学者にしては強い」と応酬した。それは余談であるが、其時私が海上保険のことを力説したのに対し、結局、渋沢は利己主義から主張するのであるなどと云はれたが、独り大隈侯は賛成し「是非やらねばならぬ。保険を実施しないと金融が疎通せぬ」と云つて居ました。大分岐路に入つたが、斯様な訳であつた。
  兎に角判然と金高は憶えぬけれども、鉄道関係から返つて来た金の内四五十万円を振り向けて海上保険会社を設立しました。其の事務は益田孝君の弟の益田克徳と云ふ人が当つた。どうして仕事をするやうになつたか其顚末は憶えぬが、主として仕事に従事したのは此の人でありませう。今の東京海上の社長各務鎌吉と云ふ人も確か高等商業学校を出ると直ぐに勤務したと思ふが、事業に詳しく、英国で勉強した人で、保険の対象たる船の鑑定が確かで特別の技倆があるらしい。東京海上は此の人の経営になつてから著しい発展を為した。要するに海上保険会社を起した原因は華族の鉄道買収の為積立てた資金があつたからで、これがなかつたら或は適当に資本が集らなかつたかも知れない。実際殆ど強制的に公な道理正しい仕事をすると云ふ理由で、義理づくで此新らしい海上保険事業を営むことにした。或は此の事業は、かくして生れる運命を持つて居たのであらう。創立は明治十二年八月で、火災や生命より遥かに前である。[中略]
森。 海上保険の必要は米の荷為替から起つたとのお話はよく了解致しました。之は別のことですが、東京海上保険会社の見積書とか目論見書は誰が書きましたでせう。
先生。 勿論学問的な考へからでなく実用からでありますが、見積書、目論見書などは、益田克徳氏が作つたと思ふ。それに就ての議論がどうであつたか、私自分で調査したのでないからよく憶えませぬ。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.544-547掲載)


参考:会社案内(動画)01 130年の軌跡
東京海上日動火災保険
http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/company/movie/story01.html
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 保険:損害保険 A (東京海上保険会社)
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/093.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 保険:損害保険A