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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1906(明治39)年10月18日(木) (66歳) 渋沢栄一、帝国劇場発起人会で創立委員長に推薦される 【『渋沢栄一伝記資料』第27巻掲載】

明治三十八年末頃より、伊藤博文西園寺公望・福沢捨次郎及び栄一外数名、相謀りて欧米風劇場新設の件に関し屡々協議す。その後機運熟し栄一・大倉喜八郎浅野総一郎・早川千吉郎・壮田平五郎・福沢捨次郎・園田孝吉外数十名発起人となり、資本金百二十万円を以て帝国劇場株式会社設立を企画す。是日並に十二月七日発起人会開催せらる。栄一創立委員長に推され、之を承諾す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 5章 学術及ビ其他ノ文化事業 / 2節 演芸及ビ美術 / 4款 帝国劇場 【第27巻 p.409-416】

1906(明治39)年10月18日、帝国劇場発起人会が開催され、渋沢栄一はその席上で創立委員長に推薦されました。栄一はこれを承諾、1907(明治40)年2月28日の創立後も1914(大正3)年7月23日まで取締役会長として同劇場に関与しています。
渋沢栄一伝記資料』第27巻p.415-416には『実験論語処世談』からの再録で「帝国劇場設立の由来」が栄一の言葉として、またp.413-414には「青淵先生関係会社調」からの再録として西野恵之助(にしの・けいのすけ、1864-1945)が語った内容が以下のように紹介されています。

実験論語処世談 渋沢栄一著  第六六〇―六六二頁 大正一一年一二月再版刊
 ○帝国劇場設立の由来
    ○渋沢は義太夫ぐらゐは語る
 私はこれでも音楽は少し解る方だ。芸者の唄つてるものを聴いても直ぐ拙いか巧いかの見当はつく。[中略] 郷里の血洗島と申す地方が、大層義太夫の流行る土地で、亡父も大変義太夫を好き、田舎義太夫ではあるが、兎に角相当に語れたもんだから、慰みに其処此処と語つて歩るいたりなどしたので、自然幼少の頃より其の感化を受けた結果である。
 今の帝国劇場を創立するのに、私が多少骨を折るやうになつたのは私が多少芸事を解るからでもあるが、その趣意とする処は帝国ホテルを設立するに尽力したのと同一で、外国貴賓の来朝せられた際に、その観覧を仰ぐべき演芸の場所が無いから、之に利用し得らるゝ建物を一つ設けて置きたいと思つたのと、又一には之によつて演劇改良の道を講じたいと思つたからだ。素と演劇改良論は風俗改良会から起きたもので、福地桜痴なぞが[しき]りに之を唱道し、当時福地は私に勧め、自分は技芸方面を担当するから、お前は経営やら事務の方を受持つてくれとの事であつたのである。私はそれも可からうといふので、その気になつてる中、福地は自分で歌舞伎座に関係し、俳優や興行師とも密接の間柄となり、全く芝居道の人になつてしまつたのである。それでは演劇改良事業に福地を親しく関係さしては却つて面白く無いからとの事で、この事業も一時沙汰止みに成つてしまつたのだ。
 然るに福沢諭吉氏が、その発頭人に成つたわけでもあるまいが、福沢捨次郎氏其の他慶応義塾出身の人々が意見を纏めて明治三十九年頃伊藤公の許へ押しかけて行き、是非演劇改良の事業に力を添へてくれよと相談を持ちかけたのである。その結果、築地の瓢家で会合し色々と話を進めたのだが、会合の当日私は折悪しく箱根に行つて出席しかねたもんだから、その罰だといふので、席上委員を選んだ際に、私は委員長を仰せ付けられたのである。東京に帰つて伊藤公より斯の趣を聞知し、是非それを受諾せねばならぬ事になつたので、帝国劇場の設立に力を尽すに至り、資本金を百万円として始めたのだが、最初はオペラ懸つたものを上演する予定であつたにも拘らず、それでは迚も[とても]経営が能きかねるからといふので、西野恵之助氏が最初の専務取締役となつて諸事を切り廻し、結局今日の如き状態に落着いたのである。幸に昨今では帝国劇場も、経営上に左までの困難を感ぜぬやうになつたから、誠に仕合せに思つてるが、外部の形式だけは進歩しても、内容の進歩之に伴はず、予期の如く之によつて演劇の改良の実を挙げ得ぬ憾みが無いでは無い。然し設備其他に於て、多少なりとも帝劇が日本の演劇改良に貢献した所はあらうと思ふのだ。
(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.415-416掲載)

青渊先生関係会社調 雨夜譚会調  昭和二年七月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    帝国劇場株式会社
      西野恵之助氏談(昭和二年七月廿一日芝白金三光町自宅訪問)
創立の動機はですネ、サー私の聞てゐる限りでは、明治卅八年アーサオブ・コンノート殿下の来朝の時、我朝野の人々が歓迎会を催して歌舞伎座へ招待しました。其時私詳しい事は知りませんが、三万円か五万円の費を投じて、電気装置や舞台装置を施したのです。それまでは歌舞伎座は電気がなかつたんですよ。そうして国賓を迎へたわけだが途中で電気が、二・三度消えたりして誠に具合が悪かつたんです。これに感じて、外賓を迎へて辱しからぬ劇場を建てたいと云ふ事になつたのです。これは国際的な体裁上の必要から生じた動機ですが、対内的即ち内輪の動機がモー一つありました。
我国の劇は徳川時代から相当進歩して来たものです。ところでこれに伴ふ観劇の方法として種々弊害がありました。例へば芝居茶屋にしましても、芝居見物者は茶屋の手を通して観劇しなければならない。それも申込順によるのでなく、所謂茶代の多い少いの順ですから金が相当かゝる。のみならず種々なものを買されたりして、簡単に観劇し得られない習慣があつたのです、で此の習慣を除かねばならぬ、と云ふのがモー一つの動機でした。
此の二つの原因で新に劇場を設立することになつたのです。而し芝居(小脱カ)を立てるのに対して地位ある人は容易に金を出さうとしません。何でもこんな議論をする者もあつたんですからね――役者を踊らせて、それに依つて得た利益を配当するなんか怪しからんと云ふ者があるかと思へば、演劇会社なんか起したつて収益はありやしない、――など今から見ると可笑なことです。
当時伊藤さんが総理大臣をして居られた。そして伊藤さんから子爵に新劇場設立に尽力を頼むと云はれたのだが、此は伊藤さんから命令的に子爵が創立委員長を頼まれになつた様なものです。これが明治卅九年の五・六月だと思ひますが、判きりしたことは一寸記憶にありません。さう云ふ事から、子爵は帝劇の創立に大いに尽力され、これに三菱の荘田平五郎さん、時事新報社長の福沢捨次郎さんが力添をされたわけなんです。其他の関係者として益田太郎さん、それに私位のものですネ。アそれから大倉喜八郎さんが居られる。大倉さんも大変尽されました。其創立に付ては益田君が演劇の方を引受け、私が事務を担当する事になつたのです。
帝劇の建設と云ふものは伊藤さんが云ひ出して、子爵が運動の衝に当られたのですが、此の計画には西園寺さん、それに当時の外務大臣林(董)さんから賛成して一般の輿論を得た次第です。
劇場建設には四年掛りましたよ。尚従来は日本の芝居には女形が居て女優などはなかつたのを、建築中に女優学校を造つて子爵は其総理になられ、大倉さんと一処に女優養成に力を致されました。現在森律子村田嘉久子・初瀬浪子などの立派な女優が出て居ますのも又子爵のお陰です。
(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.413-414掲載)


参考:[今日の栄一] 1911(明治44)年2月10日 (70歳) 帝国劇場、新築落成披露会
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年2月10日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090210/1234229123