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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1925(大正14)年10月25日(日) (85歳) 渋沢栄一、八十寿と陞爵の祝賀で竜門社より青淵文庫を贈呈される 【『渋沢栄一伝記資料』第43巻掲載】

当社主唱による青淵先生八十寿並陞爵祝賀会より、栄一に贈るべき飛鳥山邸内の青淵文庫竣工し、是日、その贈呈式挙行せらる。栄一、出席して挨拶を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 4章 道徳・宗教 / 5節 修養団体 / 1款 財団法人竜門社 【第43巻 p.200-218

青淵文庫とは、渋沢栄一の八十寿と、男爵から子爵への陞爵を祝し竜門社から寄贈された鉄筋2階建ての建物です。設計は中村田辺建築事務所で、田辺淳吉(たなべ・じゅんきち、1879-1926)が設計監督主任を務め、1922(大正11)年4月5日に起工、1925(大正14)年5月18日に竣工しています。
1925(大正14)年10月25日、飛鳥山の渋沢邸において青淵文庫の贈呈式が開催されました。その席上で栄一が述べた謝辞が式の概要と共に、『竜門雑誌』からの再録として次のように紹介されています。

竜門雑誌  第四四六号・第一〇五―一〇九頁 大正一四年一一月
    青渊文庫献呈式記事
 予て曖依村荘内に建造中の青渊文庫は此程漸く完成し、去月二十五日その献呈式を挙行したり。参会者二百四十余名、午後一時半会員の着席に次ぎ、青渊先生及来賓諸氏の臨席あり、幹事石井健吾氏より開会並に事業の報告ありたる後、先生に醵金者名簿を贈呈し、続いて委員長佐々木勇之助氏、慇懃に左の献呈辞を述ぶ。
[中略] 之に対し青渊先生は次の如き謝辞を述べられた。
  竜門社会員の方を中心として、平生懇親を厚うして居る人々が寄つて、私の為めにこの立派な文庫を造つて下さつたと云ふことは、諸君の私を愛して下さる御意志のよく徹底した処のものでありまして、深く感謝致す次第でございます。私は学問のある者でもなく、特に研究したもののある者でもありませぬから、文庫は実はふさはしからぬものであると思はれます。が併し私にとつて文庫を必要と致します理由が、二つあります。
  其の一つは、甚だ粗雑ではありますけれど、私は論語の教ふる処を算盤に当てはめて行き度いと、銀行業者になつた時から考へて居りました。功利のみでなく、道理を以てしなくてはならない、理財に従事する時、道徳を重んぜねばならない、それには論語を拳々服膺しやうと考へ、自身論語を敬愛する所から、其の普及を図りたいと思つた。従つて私は各種の論語を文庫に集め、それを引合せたり考証したりすることを、老後の楽しみとしやうと致しまして、皆さんが文庫を下さると云ふに対して、自己の為めに喜んだのであります。
  更に一つは、私は学者ではないが慶喜公伝を著しました。それは私自身筆を執つたものでなく、人に頼んで編纂せしめたのでありますが、私の精神はよく表現して居る積りであります。公の御事蹟を考へますと、丁度其時六・七百年の封建制度が転換したこと、外交の大舞台が開展したことなど、公直接の大事件であるのみならず、誠に日本帝国の大変革があつたのであります。換言致しますれば、六百年の封建が王政に復古する、其時に際して水戸出身の公は義公或は烈公の精神を享け継いで、帝室を尊敬すること厚く、国を愛することの深いお方であつたが、将軍の職に在る時、たまたま大政変に遭遇したのであるから、公にとつては容易ならぬことでありました。そして遂には逆賊と云はれ、怯懦と誹謗せられた程である。当時内には勝などの人々があり、外には西郷の如き大抱擁力のある人物があつて、無事に事件を治め得たのであるは云ふまでもないけれど、聡明にまします明治大帝の如き方があり、さらに公の如き犠牲的精神の強い、忍耐力ある人が将軍であつたからこそ、都合よく運んだのである。それ等の人々の力、殊に公の耐忍力が、よく干戈を交へさせないですませたのであります。歴史を見ましても、一人の一時の誤りから、天下の乱れたことは多くあります。彼の元亀・天正の当時、人民塗炭の苦しみに陥つたことなどを思ひ合されて、公は国の為め、人民の為め、じつと耐へ、何んと言はれても敬順の意を表して居られたのであります。世間の人々は之を知らない。併し私としては、お志のある処を見て、これがどうして逆賊であらう、どうして怯懦であらう、と感ずることが深かつた為め、これを千歳の後に知らしめねばならぬと思ひ立つたのであります。公御自身は当時のお心持に付ては何にも言はれず、努めて之に触れることを避られた様であります。御自身それでよいとせられたから、怨を雪ぐとか、証しをたてるとか云ふのではないが、私の如く知遇を受けた身としてはその本当の精神を社会に明かにする義務があると云ふ考へがあつたのでございます。それ故明治廿五・六年頃から公の御伝記の編纂を企て、萩野さんに依頼して完成したのであります。初めには頼山陽日本外史のやうに大文章でやらうとしましたが、後年司馬遷の出ること、山陽の現はれることを思ひ、こゝには史実を明かにすることを主眼として、極めて平明のものとしました。参照した書物も単に慶喜公関係のものゝみでなく、汎く各方面から求めましたが、中にも「昨夢紀事」、「新伊勢物語」などを始め、数百種の記録をも調べたのであります。そして伝記が出来上つても、これだけの所謂証拠書類は、全部保存して置きたいと思つて居ました。水戸の彰古館 [彰考館] で、十年程前、大日本史編纂の引用書を拝見したことがあります。其処には義公・烈公など君公の書入れせられたものがあつて、大変面白いと思ひました。で前申すやうにこの公の伝記の引用書もそれを保存して置きたいと切に望んで居ました。そしてその点数も数百点に及びましたから、内容を分類して保存したい、それには文庫が必要であると思つたのであります。
  文庫を有難く頂戴する理由は右の二つでありまして、重ねて申せば、一つは己の家、自己の身の為め論語を保存する、他は日本の歴史上最も重要な時期に慶喜公が大難関に処せられた史実を保存したいと思つたのであります。云はゞ小さな彰古館[彰考館]の如きものが出来やうかと楽しんで居たのであります。然るにこの慶喜公伝の史実は兜町の事務所へ置きました為め、彼の十二年の大震火災の厄にかゝつて失ひました。も少し文庫を早く頂くことが出来たならさう云ふことはなかつたかと思ひます、これは物を頂いて喜ばず愚痴を云ふやうではありますが、心に描いた楽しみを震災で失つたので、つひ申したのであります。でも目録が残つて居りますから、これによつて出来る丈蒐集して、永久文庫に保存致す積りでございます。文庫を下さつた御蔭で、私自己の為めと、お国の大政変の記録の一部を少しでも保存することが出来るならば、諸君のお志をも達し得られると存じまして、茲に厚くお礼を申上げます。
  (附記)右は献呈式の当日、佐々木委員長の献呈のお言葉に対して、青渊先生の述べられた謝辞の要旨であります。当日は屋外のことではあり、先生の御演説が一般出席者に徹底しなかつた模様でありましたから、特に先生に御願ひ致しまして十一月七日に改めて口授していたゞいたものであります。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第43巻p.200-203掲載)

渋沢栄一伝記資料』第43巻には上記以外にも次の資料からの再録として青淵文庫とその贈呈に関する詳細な記事が紹介されています。

  • 青淵先生八十寿並陞爵祝賀会順序……………………………………………… p.203-204
  • 青淵文庫建築説明書……………………………………………………………… p.204-206
  • 青淵先生八十寿並陞爵祝賀会醵金者名簿 同会編 大正一四年一〇月刊 … p.206-216
  • (増田明六)日誌…………………………………………………………………… p.216-218
     

参考:旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫
文化遺産オンライン〕
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=149141
 
『青淵文庫保存修理工事報告書』 (CD-ROM)
渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 / ミュージアムショップのご案内〕
http://www.shibusawa.or.jp/museum/store/goods12.html