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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1910(明治43)年11月3日(木) (70歳) 渋沢栄一、修養団に書簡を送り青年の知育偏重を戒める 【『渋沢栄一伝記資料』第43巻掲載】

日栄一、当団に書翰を送りて、青年の智育偏重を戒む。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 4章 道徳・宗教 / 5節 修養団体 / 4款 財団法人修養団 【第43巻 p.425-427】

修養団とは1906(明治39)年に蓮沼門三(はすぬま・もんぞう、1882-1980)により設立された青年修養団体で、渋沢栄一は1909(明治42)年に蓮沼の懇請を受けて同団賛助員となり、翌1910(明治43)年5月からは顧問に就任しています。
1910(明治43)年11月3日、栄一は蓮沼に宛てた書簡の中で「科学の進歩にばかりつとめて知育に偏重すると、精神修養を欠くことがあるのではないか、もし徳育に欠点があると、名誉に伴う責任を果たすことができなくなるのでは」と懸念を述べ、修養団における徳育拡充を懇望してます。

向上 第四巻第二号・第二六―二七頁 明治四四年二月
                   顧問 渋沢栄一
[中略] 老生今日の青年に向つて深く御注意を企望致候は、名誉に伴ふ責任と智育に対する徳育に有之候、已に世界列強の伍伴に入りたる帝国の青年、即ち第二期の社会を負担すべき国民にして、今日の有様に任せて只科学の進歩に勉め智育にのみ偏するに於ては、其の精神の修養に欠くること無之哉、果して徳育に欠点ありとせば、必ずや其の名誉に伴ふ責任を尽す能はずして、終に之をして不名誉たらしむることなきを保すべからず、是れ老生の常に憂慮するところにして、貴兄等諸君の爾来の御苦心も蓋しこの点に外ならざるものと存じ候、故に老生はこの際貴修養団に於て、飽くまで其の主旨を拡充せられ、現下全国多教[多数?]青年の心身を健全ならしめ、真摯誠実の国民と相成候様御尽瘁の程懇望の至りに候 [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第43巻p.425掲載)

渋沢栄一伝記資料』第43巻p.415-417には、蓮沼が栄一を飛鳥山邸に訪問して支援を依頼した際の様子が、蓮沼の言葉として次のように紹介されています。

向上 第一四号・第一三―一四頁 明治四二年七月
    訪問録
一、渋沢男爵を訪ふ
                 東京団員 蓮沼門三
[中略]
△男爵吾人の至情に感ず
 六月第二の日曜 ○一三日。雨を冒して飛鳥山の邸に渋沢男を訪ふた。而て日本風の応接室に座禅をして待つて居ると暫くにして質朴の老偉人が現はれた。其温厚の態度は余をして春風に浴するの感を与へたのである。余は衷心の至情を吐露して精神教育の必要を述べ、教育の良否は直ちに国家の消長に関係すること、良教育の行はるゝと否とは教師の人格の如何に帰因すること、現代風紀の紊乱[びんらん:風紀を乱すこと]、教育界の惰民は熱誠なる青年教育者の奮起によつて革正せざるべらかざることに論及し、進んで現代の小学校教育、中学師範教育が偏知的たるを難じ、道徳的品性陶冶の急務を熱心に語つた。
 而して修養団なるものは社会の風儀改善を目的として起り、先、互に自己品性の向上を図りつゝ精神教育を行ひ、幼年青年の品性を純潔高尚ならしめて、着実真面目にして而かも剛健なる第二の国民たらしめ、以て歓楽多き社会を作らんと奮闘する赤誠の青年団体なることを語つた。男は熱心に聴いて居られたが、やがて徐ろに口を開かれて
 「君の熱心なる御手紙を詳しく拝見していたく感服しました。直ぐ御返事を上げやうとは思ひましたが、直ぐに御訪ね下さることを考へて其まゝにして居りました。今色々と承つて益々修養団の趣旨がわかりまして、悦ばしい団結と思ひます。御説の通り、小学校、中学校時代は実に品性の陶冶の最好時期で、教師の教へやうによつて、どうにもなるのであります。然るに現今の教師は困つたことには卑屈で偏狭で、活気なく、そして自分の職業が神聖であるとの自覚がなく、云はば日雇魂性で、パンの為めに仕方なしに厭々ながら腰掛にやつて居るといふやうな者が多くて実に残念に思ふ。恂に教育者たるものは人格が第一で、人格の卑しい者ならば人の子女を害することが多い。若し神聖の良教師であるならば、『自分の嘗て教へた生徒は其後どんな人間になつたらう。堕落はしまい。病気とはなるまい。よい品性の青年となつたであらうか』と、行末迄も案じ思つてやるべきと思ふ。しかるにこんな考を持つ者幾人あらうか。車夫が客を挽き廻すやうに、一時間挽いて其先は他の車夫に渡して顧みぬといふ風では、教育の行はれよう筈がない。現今の教育は智識の切売教育で話にならぬ。児童の不敬虔不真面目になるのもわけがある。この風潮を矯めるのは、赤誠の青年教育者諸君が責任と存じますから、大に国家の為に尽力しなさい。」
 渋沢男は実業家である。しかも其所論は教育家の如き識見を持つて居らるゝ。
 余は吾人の衷心の叫と、男の思想とが全く合致することを悦んだ。そして再び口を開いた、「私共の社会革正の計劃は実に綿密に出来て居ります。精神教育の方針もしつかり整へて居ります。これを実行するには先輩諸君や、あなた方のやうな人の助力に俟つ所が多大であります。どうぞ青年共の意気込を諒とせられ、其活動の出来るやう御尽力を願ひます。
 男爵は吾修養団の趣意に賛成なされたが、急用で出掛けねばならんため、委しいことは再会の時として別れた。男爵が吾人団体の真相を知られた時には、大なる助力を与へらるゝは云ふまでもない。
(『渋沢栄一伝記資料』第43巻p.415-417掲載)


参考:[今日の栄一] 1923(大正12)年9月8日 (83歳) 修養団関東大震災で緊急理事会開催
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2008年9月8日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20080908/1220836807
[今日の栄一] 1919(大正8)年10月11日(79歳) 渋沢栄一、森村市左衛門追悼会で弔辞
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2010年10月11日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20101011/1286760851
SYD[財団法人修養団]公式ホームページ
http://www.syd.or.jp/