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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1931(昭和6)年11月8日(日) (91歳) 渋沢栄一、長男篤二を通じて来訪の知己に告別の辞を伝える 【『渋沢栄一伝記資料』第57巻掲載】

日栄一、長男篤二を通じて、病気見舞のために来訪の郷誠之助・佐々木勇之助・石井健吾其他の財界有力者に告別の辞を伝ふ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 3部 身辺 / 9章 終焉 【第57巻 p.728-730】

竜門雑誌  第五一八号・第一一―一二頁 昭和六年一一月
    病状(二)
○上略
八日
新聞にて容態悪化の旨が報道されたので、朝来見舞客が増して来た、しかし病状の経過は意外によろしく、寧ろ一同愁眉を開いた、しかし勿論警戒を大いに要するのである。そして御病床の青渊先生は、恰度郷誠之助男・佐々木勇之助氏・石井健吾氏その他財界の有力者が御見舞に見えて居る旨を聞かれ、己の病気を忘れたる如き口吻にて次の如く伝へられたいと、その心事を語られた。
  私は帝国民としてまた東京市民として、誠意御奉公をして参りました、そして尚ほ百歳までも奉公したいと思ひますが、この度の病気では最早再起は困難かと思はれます、しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません、たとへ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とを御祈し守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.728掲載)

この日、渋沢栄一の病床を訪れた見舞客の一人、郷誠之助(ごう・せいのすけ、1865-1942。実業家)が、渋沢栄一について語った談話が『渋沢栄一伝記資料』別巻第8の「諸家談話」に掲載されています。その中で郷は、栄一の人物観と晩年の栄一との逸話を次のように語っています。

[前略] 渋沢さんはめつたに人のいふことに抗議を言はぬ人でした。人が、これはかうなつてゐるからかうなりますといへば、さうかと聞いてくれた。
 それから非常に記憶のよい人でした。数字なども、私等は無駄な記憶だと思ふ程、よく億えてゐられた。
 また、根のいい人で、或る会議で渋沢さんが説明されてゐる処へ時間に遅れて来た人があると、渋沢さんはその人に又最初から説明してやられる。それが落着いたもので、実に丁寧にやり直される――遅れた人が何人もあると、最初から聞いてゐる私共はうんざりしてしまふ程何度も同じ事を聞かされる――全く根のいい人でした。
 それに渋沢さんは腰がひくかつた。局長位の人にも局長局長と言ひ私に向つてさへ閣下閣下といつて下さる位だつた。
 渋沢さんから貰つた手紙は大部あつたが、私の習慣で、皆破つてしまひました。
[中略]
 渋沢さんについては私にもう一つ思ひ出がある。それは子爵がなくなられる二三年前に、ガス問題がやかましくなつた頃です。その時分私は箱根の別荘にゐたが、渋沢さんも箱根の三河屋に来て養生してをられて、私の処へ使ひを寄こされた。私の別荘は山の中腹にあるので途中大部難儀な所がある。渋沢さんはそこまで上るのは足が悪くて辛いから、済まないが三河屋の方へ来てくれまいか、といふことで、私の方から出掛けて行つたことがある。
 奥様も一緒にみえてをつた。
 その時の話題は、「ガス問題がやかましくなつてゐるが、何とか治めてくれんか。私も東京市には因縁があるから、何とかせねばならぬと思ふが、自分独りでは一寸困る。あなたと一緒ならやれるだらうと思ふ」といふお話で、私に相棒になつてくれといふことであつた。
 しかし、これは渋沢さんが調停に出られるのを私はお止めした。といふのは「私も渋沢さんから相棒になれといはれれば喜んで片棒を担ぎませうが、この解決には市会議員に金を使はねばなりませぬ。議論ばかりでは解決出来ませぬ。といつてあなたが金を使つて解決なさるといふ事も出来ますまいから、お止しになられた方が宜しいでせう」と私はお止めした。だから後日、瓦斯会社から渋沢さんのところへ調停を大部熱心に頼みに行つたやうだがたうとう引受けられなかつた。
 話は前に戻るが、私の三河屋に伺つた日は珍しく他に来客もなかつたので、三四時間ゆつくりお話した。
 瓦斯問題の話から私は「今日の日本の文明は智育のみ盛んで、道徳が薄くなつてゐる。ですから徳育を盛んにせねばならぬと思ひます」と申したところ、渋沢さんも私の趣意に賛成されて「私も穂積――多分陳重さんだつたのでせう――と日本の教育は知識を詰込むばかりであるが、これは何とかせねばならないと話をしたことがある」といふことでした。
 私はなほ「日本は外来の思想に押されて、本来の日本気質を失つてしまつてゐる。外国には夫々の国風を持つてゐるが、今の日本には国風がない。これではいけぬから、よい国風を作らねばならぬ」といふ意味のことを話し、又私の独逸時代に経験したことや米国の例を引いたりして、日本では大いに徳育を盛んにせねばならぬと申上げた。
 渋沢さんも私の意見に大いに共鳴されて「これからお互いにこの方面に努力しませう」といつて下さつた。
 この時の話はその後実行出来ない内に渋沢さんは亡くなられてしまたが、徳育についての問題は、渋沢さんの私に対する遺言であつたやうに感じてゐる。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第8 p.344,346-347掲載 「余禄/諸家談話/六 郷誠之助氏談話」より)

なお、エピソード中の「ガス問題」に関連して、『渋沢栄一伝記資料』第53巻には次の綱文と関連記事が紹介されています。

昭和1929四年六月二二日
是ヨリ先、東京市ハ市会ノ決議ニヨリ、当会社ニ対シテ料金ノ値下ト計量器使用料ノ廃止ヲ求メシモ、当会社ハコレオヲ拒ミ、当会社ハ資本金増額ヲ市ニ申請セシモ、市ハコレヲ容レズ、ココニ紛糾ヲ生ゼリ。
是日、星野錫・坪谷善四郎・山崎亀吉・田川大吉郎等、栄一ヲ飛鳥山邸ニ訪ヒ、コレガ調停ヲ懇請ス。栄一、井上準之助ニ諮リテ調停ニ立タントセシモ、辞退ス。
八月ニ至リ、該問題ニ関シテ天皇陛下ヨリ商工大臣俵孫一ニ御下問ノ事アリ。ココニ於テ当会社常務取締役鈴木寅彦ハ更メテ栄一ニ調停ヲ乞フ。栄一、郷誠之助・大橋新太郎ト共ニ調停ニ立タントシタルモ、八月十二日開カレタル市会全員協議会ニ於テ、調停拒絶ノ決議行ハル。仍ツテ調停ノコト止ム。
(『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.232掲載)

 
参考:東京瓦斯株式会社 - 『渋沢栄一伝記資料』第53巻目次詳細
〔財団法人渋沢栄一記念財団〕
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/53.html