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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1917(大正6)年11月22日(木) (77歳) 渋沢栄一、『徳川慶喜公伝』献呈奉告式で献本の次第を述べる 【『渋沢栄一伝記資料』第47巻掲載】

当伝記の編纂完了し、付録及び索引共全八冊の印刷成る。是日、徳川慶喜の嗣子徳川慶久、谷中墓地内の徳川慶喜墓前に於て、当伝記献呈奉告式を執行す。栄一参列、当伝記を墓前に進献し、且つ献本の次第を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 6章 学術及ビ其他ノ文化事業 / 4節 編纂事業 / 1款 徳川慶喜公伝編纂 【第47巻 p.687-706】

    ○徳川慶喜公伝献呈奉告式
 明治二十七年以来、青渊先生が心血を注ぎて編纂せられたる徳川慶喜公伝、今回漸く完成せるを以て、これを徳川公爵家に献呈せられし処、公爵家に於ては十一月二十二日、公の忌辰を以て、谷中なる公の墓前に於て荘厳なる奉告式を行はれたり [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.687-689掲載、『竜門雑誌』第355号(1917.12)p.81-84)

1917(大正6)年、渋沢栄一が手掛けた『徳川慶喜公伝』の献納式が徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837-1913)の命日にあたる11月22日に谷中の慶喜墓前において執行されました。栄一は献納式で同書を編纂するに至った思いを次のように語っています。

    興山公御墓前に於て
               (大正六年十一月二十二日)
                    渋沢栄一 敬白
[前略] 明治二十七年以降二十有余年私の心血を濺ぎて公の御伝記編纂に努力致しましたのは深い衷情の存する処でございます。公の御生前に於て此計画は詳細に聞し召され御許可も蒙りましたが、遂に其成本は御墓前に奉呈するに至つたのは、如何にも残り惜しく思ふのでございます。御伝記の編纂に付ての由来は、巻頭に自序として事長く認め置きましたから、在天の神霊も御首肯下し置かれるであらうと信じまする。又社会の人も斯様な次第であつたかと云ふことは一読されたら了解するであらうと思ふのでございまするが、今此御伝記を霊前に献ずるに際しては、事重複に亘りまするけれども万感胸に溢れて更に御墓前に開陳致さゞるを得ぬのでごさいます。御伝記の巻頭に掲げました『ながむればふりにしことのうかみ来て月に昔の影も見えけり』と云ふ公の御名吟は、如何にも私の心を此処に描出されるやうにございまする。[中略] 殊に最初此事を発起しましたときは、世の中が公を誤解し或は曲解するに至つたのを私は如何にも遺憾と思ふて、雪寃的の考慮を持つたのでございますが、それは其時の有様であつて、其後雲霧は消散して天日の公明、今日は社会に明瞭になりましたから、私の雪寃的の念慮は業に既に無用になりましたが、茲に此小著述に依つて後世天下の人の感応を企図するのは、即ち公の大犠牲の精神であります。輓近人文の進歩と共に人々皆智巧に趨りて漸く犠牲的観念が乏しくなつて、自己本位の弊滔々として進むやうに感じまする。此時に当りて公の御行動の唯君国の為めに御一身を犠牲に供されたと云ふことを、能く社会の人に知悉せしめたならば、或は春秋以上の効能あらむと言ひ得るかと思ふのでございます。私は今日御伝記を御墓前に呈するに方り、此一言を霊前に告げ奉りて、在天の神霊が私の微衷をお饗け下さることを懇願して已まぬのでございます。
   備考 前号『徳川慶喜公伝献呈奉告式』記事参照
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.689-691掲載、『竜門雑誌』第356号(1918.01)p.11-13より)

徳川慶喜公伝』完成を喜ぶ栄一の様子について、歴史学者三上参次(みかみ・さんじ、1865-1939)は栄一没後の1931(昭和6)年12月13日、帝国ホテルにおける栄一の追悼会でその遺影を前に次のように述懐しています。

    青渊先生と白河楽翁公とに就て
                 文学博士 三上参次
[前略] 慶喜公は朝廷から追々と御優遇になり、静岡から東京へ帰られる、位階も従一位勲一等麝香間祗候と云ふやうなことになりまして、軈て徳川の御本家とは別に公爵家をお創めになると云ふやうなことになりましたので、青渊先生さう云ふことに付ては大変に喜ばれまして、自分の慶喜公に報い、慶喜公の事蹟を明かにしやうとする所の素志は、それでもう半ば以上達して居るのである、と言つて大に満足をせられたのでありますが、軈て大正六年に此慶喜公伝が出来上りましたに付て、我が願ひは之で終つたと仰せられて大変に喜ばれたことがあります。其時の御満足のお顔は丁度此処に拝するやうなお顔で、今に能く私は眼底に残つて居るのであります。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.704,706掲載、『竜門雑誌』第519号(1931.12)p.36-38より)

なお、『徳川慶喜公伝』献呈奉告式について、『渋沢栄一伝記資料』中ではこの他にも第57巻p.410-417「身辺/交遊/徳川慶喜」の項目で紹介されています。
 

徳川慶喜公伝』編纂に関する参考エントリー: