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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1924(大正13)年11月24日(月) (84歳) 渋沢栄一宛に、孫文より会見の申し込み 【『渋沢栄一伝記資料』第38巻掲載】

是日孫文、上海より海路北京に赴く途次、神戸に寄港して栄一等と会見を希望す。栄一病気のため応ずることを得ず。第一銀行神戸支店長大沢佳郎に託して伝言を通じ、更に日華実業協会専務理事角田隆郎に託して意を通ず。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 5節 外賓接待 / 4款 中華民国国民党党首孫文歓迎 【第38巻 p.579-587】

1924(大正13)年11月23日、孫文(そんぶん、1866-1925。中国の革命家、政治家)は渋沢栄一に電報を送り「弊国の時局収拾の為北京へ行く、その途上日本を経由するので東亜の大局につき懇談したし、神戸まで御光来あらば幸甚」と、神戸での会見を依頼しました。中国興業(後に中日実業)設立などで孫文と親交のあった栄一は、「御上京ナサレ久々ニテ御面会ノ機ヲ得ハ幸甚ナリ」との伝言を第一銀行神戸支店長大沢佳郎(1873-1945)に託しています。
神戸に到着した孫文は、到着当日の11月24日に大沢佳郎と、さらに28日には日華実業協会の角田隆郎と会見しています。『渋沢栄一伝記資料』第38巻p.582-584には、角田が栄一から託された孫文戴季陶(たいきとう、1891-1949。号:天仇(てんきゅう)、中国の政治家)宛てメッセージが、次のように紹介されています。

孫文氏への御挨拶大要 大正一三年一一月二七日 (渋沢子爵家所蔵)
    孫文氏への御挨拶大要
御一別以来、何時も国事に御奔走の事は新聞紙によりて承知致し、終始一貫御尽瘁の程遠方ながら感服致し、祝賀致し居る次第であります此度御来遊せられたに付ては、是非参上致したいとも存しましたが、折柄病気の為め参ることの出来ませぬことを非常に残念に存して居ります。又同志の人々とも協議しましたが、皆都合が悪く誰も行くことが出来ませず、真に遺憾と存じましたが、幸に日華実業協会の専務理事たる友人角田隆郎君が行かれることになりましたので、同君に托し衷情を御伝へすることゝしました。何卒御聴取を願ひます、私は政治界に関係なく実業界も数年前直接の関係を絶ち、縁が遠くなつて居りますので、現下の状態に付ての観察は頗る迂遠で御座います、今朝の中外商業新報で発表されました日本に対する宣言を通読しまして、頗る吾意を得たと思ふて居ります、それにつけても御面談の上親しく討議致しますれば、興湧き熱生することゝ思ひまして、残懐の感を深くします
角田君の尽力して居ります日華実業協会は、貴国と事業上の関係ある人々の組織して居る団体でありますが、私は会長を御引受して居る関係上、貴国の近状を時々承り居ります、一昨年から昨年にかけての学生・商工業者の行つた日貨排斥に付ては、真に不穏当と思ひ、其筋にも抗議を申込んだこともあります、幸に此頃では其騒動も後を絶ち、誠に結構なことゝ思ふて居ります、然し両国の国交が政治上から見ましても経済上から見ましても、兎角円熟せざるは痛憾至極で御座います、此問題に付てもお互に他を責めることをせず、自己を省み忠恕を以てし交誼を堅固にすべきである、又左様したいと期念して居る所であります
私は道徳経済合一説を力説して居りますが、今は経済界を離れた自分でありますから、道徳の方から之に適合する様にしたいと心配もし努力もして居ります、此等の点は角田君よりも御聴取下されば仕合で御座います
不日北京に御出での様に承知して居りますが、諸賢と御会議の節は何卒国交の円滑に参ります様大局高所よりは勿論、些々たる問題に付ても此目的に副ひます様御心配が願ひたいのであります、一家より一村に、一村より一郡に、一郡より一国に、更に世界にまで及ぼす、即小より大に及ぶと云ふことが事物の妙諦でもあり、道徳経済合一の基礎でもあると思ひますので、国家の大問題を議するに付ても些事と雖も能く御考へ願ひたいと存じます
尚先年御相談しまして組織しました中日実業会社も、其後一向発展は致しませんが、続いて貴国との関係に付努力は致して居ります、序ながら申添ヘます
終りに益御健祥で邦家の為め、御活動の事を衷心より深く御喜申上ます
    戴天仇 [=戴季陶] 氏への御挨拶
暫く御無音に打過ましたが益御健全で何よりと思ふて居ります、日本語に益御熟達の御模様を新聞紙を通して承知致し喜んで居ります、只余りに雄弁である為め他の嫉視を受ける様なことがあつてはと秘に心配して居ります、何卒御自重願ひます
  大正十三年十一月廿七日
  ○右ハ角田隆郎ニ託シテ在神戸ノ孫文ニ宛テタル栄一ノ挨拶状ノ控ニシテ、渋沢家所蔵書類綴込「支那人往復(一)」中ニアリ。
(『渋沢栄一伝記資料』第38巻p.582-584)

なお、『渋沢栄一伝記資料』第38巻p.578から585にかけて、1924(大正13)年の孫文来日に関連する往復書簡等が掲載されています。

月日
1924年
資料抜粋第38巻
掲載ページ
6月孫文
栄一書翰
「…着々御経綸御実行ノ事ト存候…」p.578
9月18日栄一宛
孫文書翰
「…北伐ヲ以テ国民治ヲ望ム、李参謀長ヲ貴国ニ派遣…」p.578-579
11月14日孫文
栄一書翰
「…李君ハ東京着…一夕之小宴を催し…」p.579-580
11月19日栄一宛
李烈鈞書翰
「…北上ノ前、先ツ小生ト途ヲ門司ニ取リ再応御面談シ…」p.580
11月20日栄一宛
孫文電報
「1148 7059 1122 1628 1854 …(暗号)」p.580
11月22日大沢宛
栄一電報
「…孫文氏秘ニ貴地ヘ立寄ル由…御伝ヘ乞フ『…御上京ナサレ久々ニテ御面会ノ機ヲ得ハ幸甚ナリ』」p.580-581
11月23日栄一宛
大沢電報
「御申越拝承、明日着ノ筈ニツキ御伝ヘスル…」p.581
11月23日栄一宛
孫文電報
「…神戸マデ御光来アラバ幸甚…」p.581
11月23日孫文
栄一電報
「…御希望ニ応ジ兼ヌル故不悪諒承有度シ…」p.581-582
11月24日栄一宛
大沢電報
孫文氏ニ面会御言葉ヲ伝エタルニ、氏ハ御厚情ニ感謝…」p.582
11月[24 or 25日]大沢宛
栄一電報
「…御伝達請フ …病臥中ノ為メ如何トモ致シ兼ネ…」p.582
11月25日栄一宛
大沢電報
「御言葉伝エタルニ御高配ヲ感謝スト申サレタリ」p.582
11月28日栄一宛
大沢書翰
「…角田隆郎氏御来神相成、…孫文氏との御対談も承り申候…」p.584
12月1日栄一宛
孫文電報
「…朝野ノ御好意ヲ受ケタルヲ感謝ス…」p.584
12月2日孫文
栄一電報
「…角田氏帰京ノ上近情ヲ承知シ欣慰ノ至リナリ…」p.584-585
大沢佳郎
岐阜県高山町に生る。明治一七年、八王子銀行東京支店に入り、同二〇年第一国立銀行に移る。以後、各地支店支配人、検査部長を経て取締役・監査役に任じた。明治六年(一八七三)―昭和二〇年(一九四五)
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.604掲載)
 
参考:大アジア主義 (1〜4) 神戸高女にて 孫文氏演説 戴天仇氏通訳 大阪毎日新聞 1924.12.3-1924.1.6(大正13)
〔新聞記事文庫 - 神戸大学附属図書館〕
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10014630&TYPE=HTML_FILE&POS=1
[今日の栄一] 1924(大正13)年3月31日 (84歳) 日華実業協会で、日中親交機関設置について協議
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年3月31日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090331/1238463304
[今日の栄一] 1925(大正14)年1月28日 (84歳) 孫文危篤、高木陸郎に代理見舞いを依頼
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年1月28日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090128/1233105613