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 1905(明治38)年1月3日(火) (64歳) 渋沢栄一、日露戦で没した横山富三郎のため墓誌を揮毫す 【『渋沢栄一伝記資料』第28巻掲載】

是より先、明治三十七年七月二十四日陸軍大尉横山富三郎清国大石橋付近に於て戦死す。是日栄一、同人のため墓誌の揮毫をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 8章 其他ノ公共事業 / 1節 記念事業 / 9款 記念事業関係諸資料 / 2 横山富三郎墓誌 【第28巻 p.550-555】

1905(明治38)年1月3日、渋沢栄一日露戦争で戦死した陸軍大尉横山富三郎(渋沢家の家庭教師、横山徳次郎の弟)のため墓誌の揮毫をしています。『渋沢栄一伝記資料』第28巻p.551-552には、その内容が次のように紹介されています。

征露忠死横山大尉 横山徳次郎編  第四一七―四二〇頁 明治三八年七月刊
[前略]
      三 墓誌
墓誌は本年一月渋沢男爵に懇請して之が撰文並に揮毫を賜はることを得たり、即ち彫刻に附し漸く成を告げたり、今この墓標全体の体裁をいへば、正面には大尉の官職・位階・勲功・氏名等にして、墓誌の全文は右側面よりはじまり背面に廻り、左側面に至りて終れり、今次に之を掲げ謹で男爵の厚情を鳴謝し、且つ子孫をして大尉の生涯を追想せしむ、即ち左の如し。
(正面) 陸軍歩兵大尉正七位 勲五等 功五級 横山富三郎之墓
  横山大尉墓誌 正四位勲三等男爵 渋沢栄一撰並書
  大尉姓ハ横山、名ハ富三郎、明治八年十二月十一日岐阜県濃州羽島郡上羽栗村字若宮地ニ生ル、父名ハ藤九郎、母ハ永縄氏、大尉ハ其三男ナリ、性豪放不覊、夙ニ軍籍ニ入リ、一身ヲ邦家ニ捧ケムト欲シ廿五年九月陸軍幼年学校ニ入リ、優等ヲ以テ半官費生トナリ、廿九年十一月陸軍士官学校ノ業ヲ卒ヘ、名古屋第三師団歩兵第六聯隊附トナリ、卅二年七月台湾守備ノ任ニ就キ、駐剳一年後東京ニ於テ仏蘭西語ヲ専攻シ、帰隊ノ後清国ニ差遣セラレ、北清駐屯ノ列国軍隊ヲ視察シ、大ニ得ル所アリ、卅七年二月征露ノ役起ルニ当リ、三月廿四日歩兵第六聯隊第十一中隊長トシテ第二軍ニ属シ、意気衝天満州ノ野ヲ睥睨シ、南山ニ、得利寺ニ、蓋平ニ、砲火弾雨ノ間ニ転戦シ、驍名尤モ揚ル、七月廿四日大石橋附近ノ激戦ニ於テ大夜襲ノ先登ヲ為シ、勢怒濤ノ如ク辺汗溝高地ヲ突撃シ、我強彼勁殺傷相当ル、忽チ一丸大尉ノ左腿ヲ貫ク、大尉屈セス、励声叱咤、猛獅ノ咆哮スルカ如ク拳銃ヲ執テ奮進ス、丸又左腕ヲ砕ク、大尉猶屈セス、流血淋漓、縦横悍闘シテ遂ニ敵塁ヲ抜ク、此時我将卒或ハ傷キ或ハ殪レ、全隊殆ムト尽ク、一卒アリ、大尉ヲ扶ケテ陣地ニ還ラムトス丸三タヒ来ツテ大尉ノ左胸ニ中リ遂ニ起タス、享年三十、嗚呼悲哉其勇敢壮烈鬼神ヲシテ泣カシメムトス、事辱ケナク
  叡聞ニ達シ、殊勲ヲ以テ特ニ功五級ヲ賜ヒ、勲五等ニ叙セラル、九月四日軍葬ヲ郷邑ノ東廓ニ行フ、法号ヲ惟喜院釈秀華居士ト曰フ、遠近来ツテ柩ヲ輓クモノ無慮一万余人、洵ニ盛哉、配稲村氏大尉ノ歿後一男ヲ挙ク、武富ト名ツク、大尉後アリト謂フヘシ、余曾テ大尉ヲ弔スル詩アリ、録シテ以テ追悼ノ意ヲ表スト曰フ
   勇士不忘喪其元 果看壮烈報皇恩 無情大石橋辺月 空照精忠未死魂
    明治三十八年七月二十四日     男武富建之
    ○横山富三郎ハ渋沢家ノ家庭教師横山徳次郎ノ弟ナリ。
(『渋沢栄一伝記資料』第28巻p.551-552)

栄一は富三郎を悼み次のような和歌も詠んでいます。

竜門雑誌  第一九八号・第三一頁 明治三七年一一月
 ○和歌
○上略
    ○陸軍大尉横山富三郎ぬしの戦死せられたるを悼みて
                         栄一
打払ふ其しこ草の露ちりて
      玉とくたけし君そかなしき
なきたまは西比利亜の野にとゝまりて
      大御いくさをまちやわふらん
  ○横山富三郎ハ渋沢家ノ家庭教師。横山徳次郎ノ弟。
    ○横山未亡人の男児を挙けられけるよし聞きて故大尉追悼の情いやましつゝ
ひな鶴の声きくたひにしのふかな
      雲かくれせし親鳥の影
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.223掲載)


横山徳次郎
岐阜県藤九郎の二男。明治三四年東京高等師範研究科卒。岐阜中学教諭より文部省図書編纂委員となり転じて渋沢家の家庭教師となった。同四〇年東京貯蓄銀行青山支店長を勤務、爾後、石川島造船、浅野小倉製鋼等の重役となった。明治二年(一八六九)―昭和一九年(一九四四)
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.630掲載「宛名人名録」より)