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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1924(大正13)年1月14日(月) (83歳) 渋沢栄一、関東大震災火災保険金支払い問題について政府の意向を確認 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

日栄一、農商務大臣前田利定と会見し、政府の意向を訊す。三月に至り、政府の責任支出並に会社側の出捐により、当問題は解決するに至る。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 1章 金融 / 4節 保険 / 9款 関東大震災火災保険金支払問題 【第51巻 p.342-353】

東京海上火災保険株式会社六十年史 同社編
                     第四四三―四六七頁
                     昭和一五年一〇月刊
  第四節 関東大震災と保険問題
    第一款 所謂「火災保険問題」
○上略
 大震災は忽ち各所に大火災を惹起し実に名状すべからざる惨害を伴つた。この火災に因る損害を火災保険契約に結び付けて所謂「火災保険問題」といふ社会問題を惹起するに至り、その為に、我が火災保険業界は存亡に関る難関に直面し、その善後処置には関係大臣の引責辞職といふが如き政治問題も絡み、波瀾曲折を極めたが、事件発生後六ケ月余を経て、保険会社は政府から助成金を借入れ見舞金を出捐するといふことで、漸く段落を見るに至つた。[中略]
 凡そ火災保険契約に於て、地震に因る火災の損害に対しては、所謂地震免責条項に依つて保険業者に塡補の責任がないことが明かであり仮りに、非常天災の場合として見舞金の支払を為すとしても、当時内国会社三十六社の罹災契約高十五億円余に対し、その資産総額は二億二千万円にも足らざる状態であつて、如何とも為し得なかつた。殊に業者は罹災地以外の地域に於ける多大の契約に対しても責任を負担してゐたのであるから、これを無視し経営の基礎を危くするやうな支出を行ふことは所詮出来ないことであつた。然し罹災被保険者の側から見れば、保険金の支払を受けると否とは復興再起の為最も重大な関心事であつたから、保険業者は地震免責条項の適用といふが如き理窟に囚はれず、宜しく犠牲的の出捐を為すべしと朝野を挙つて激烈な要求を起して来た。尤も保険業者の中でも、関東に本店を有して惨禍を目のあたり見た会社と、関西に本店を有して冷静な環境から問題を眺め得る会社と、又資産の部に罹災契約高の多い会社と、大資産を有して罹災契約高の比較的尠い会社との間には、自ら利害の懸隔、感情の相違等があつた為、火災保険問題は最初から限りなく紛糾すべく運命附けられてゐた。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.346-347掲載)

1923(大正12)年9月1日の関東大震災から1週間経った9月8日、渋沢栄一首相官邸を訪れ、内務大臣後藤新平(ごとう・しんぺい、1857-1929)、大蔵大臣井上準之助(いのうえ・じゅんのすけ、1869-1932)らと会見し、火災罹災者への保険金の支払いについて「保険金ハ支払ハネバナラヌ、然シ支払フト云フコトニナレバ勝手ノコトヲ云フコトトナル、故ニ政府モ補助スルカ保険会社モ捐[損]ヲスル、又被保険者モ捐[損]ヲスルコトヽシ其程度ハ熟慮ヲ要ス」という主旨の意見を述べています。
その後も栄一は紛糾する火災保険支払い問題について、たびたび大臣らと会見、問題解決のために尽力しました。保険金支払いについては、火災保険会社間でも意見調整が難航、政府は助成金に関する法案を結審させないまま虎ノ門事件により内閣総辞職となり、問題は清浦奎吾(きようら・せいご、1850-1942)が率いる新内閣にゆだねられました。
1924(大正13)年1月14日、栄一は新たに農商務大臣となった前田利定(まえだ・としさだ、1874-1944)を訪ね、火災保険問題について政府の意向を確認、前田農相より数日中に答案を出すとの言明を得ましたが、その後清浦内閣は31日の議会が紛糾したことで強行解散となり、火災保険問題の検討もまた棚上げとされてしまいました。
栄一はこれら保険会社や政府の対応への私見として、『国民新聞』に次のような談話を出しています。

国民新聞  第一一五三二号 大正一三年二月二三日
    火保紛糾と私見
                    渋沢子爵談
火災保険金問題が民衆運動勃発に依つて、漸く会社側並に当局が其の意を解決に傾くるが如き事は決して喜ぶ可き徴象とは思はない、由来会社側が支払ふ可き行為を可及的遅延せしめて居た心理は、私個人としても憤慨の極に達してゐる、私は法理論を以つて解決を望む者で無く、一も二も愛国心の発露であつてほしい、他面政府当局の態度を見るに、前内閣の措置は真に救済の時機を失したが、之れに替つた現内閣の態度は何と云ふ冷淡な態度だらう、凡そ社会の事物には緩急自ら別がある、而も保険金問題は急中の急なるものであつて、之れが一刻も速に解決せらるゝと否とは、単に個人的利益と云ふよりも日本復興の問題ではないか、政府当局が協議に日を遷す事はそれだけ復興を遅延せしむるので、重大なる責任があると思ふ、今は理論の場合ではない、責任支出で一刻も速かに解決を要する時である、私はこれから藤山会議所会頭と首相を訪問して充分に意見の交換を行ふ筈だが、要するに会社側に対して当局は厳密なる調査を為す事が出来るのだから、速かに調査を断行し会社の最大能力を支払はしめ、之れに政府が責任支出を以て援助すれば問題は直ちに解決すると信じて居る、国民あつての政府である、その国民を救済するに躊躇して、九月一日以来現下に到れる事さへ政府の大失態であるから、此の際最早論議された法理論でなくて、即ち実行を見る可く誠意を表明するは実に刻下の急務であると同時に、為政者として当然の義務であると私は信じて居る
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.344-345掲載)

関東大震災火災保険問題の概要(『渋沢栄一伝記資料』第51巻より抜粋・要約)

  • 1923(大正12)年
    • 9月8日  渋沢栄一、首相らと面会、保険金支払いについて私見を披歴 (p.325)
    • 9月28-30日 大日本聯合火災保険協会、協議会開催 (p.347)
    • 10月1日 協会は蔵相、農相に援助を依頼するも回答得られず (p.347)
    • 10月4日 渋沢栄一、農商務大臣田健次郎に政府から具体案を出すよう依頼 (p.325,327)
    • 10月25日 大日本聨合火災保険協会会長、関西側と協議、一割出捐への賛同をとりつける (p.348)
    • 11月15日 同協会会長、政府の意向確認のため田農相、井上蔵相訪問するも結果得られず (p.348)
    • 11月17日 渋沢栄一、井上蔵相を訪問して、考慮を依頼する (p.336)
    • 12月5日 閣議決定「保険会社ニ対スル貸附金ニ関スル法律案」法案に対し、非難が起る (p.350-351)
    • 12月6日 閣議において修正案作成、保険会社三十二社の賛同を得る (p.351)
    • 12月8日 東京市長永田秀次郎渋沢栄一に議会と政府の衝突回避への尽力を依頼 (p.341)
    • 12月10日 渋沢栄一高橋是清臨時議会の無事通過希望を伝える (p.341)
    • 12月12日 保険会社は、請願書を政府に提出 (p.351)
    • 12月12日 法案、衆議院へ (p.351)
    • 12月21日 審議未了、法案は通過せず。12月25日から開始予定の見舞金一割支払中止。田農相引責辞職 (p.351)
    • 12月27日 虎ノ門事件で山本内閣総辞職 (p.352)
       
  • 1924(大正13)年
    • 1月7日 清浦内閣成立。前田利定が農相に、勝田主計が蔵相に就任 (p.352)
    • 1月14日 渋沢栄一、新農商務大臣前田利定と会見、政府の意向を確認する (p.342)
    • 1月31日 清浦内閣、議会の解散を断行 (p.352)
    • 2月23日 渋沢栄一、『国民新聞』に談話発表 (p.344-345)
    • 2月25日 政府は臨時閣議で大綱を決定 (p.352)
    • 2月26日 政府から保険会社側へ正式に通達、保険会社側はこれに対応して援助金交附請願書を提出 (p.352)
    • 3月5日 政府は下附金を勅命案により緊急財政処分の方法で処置しようするが、枢密院は反対 (p.352)
    • 3月6日 臨時閣議で該案撤回。貸附金八千万円は国庫剰余金からの責任支出となる (p.352)
    • 4月12日 閣議で政府は火災保険助成金交附に関する勅令案を決定 (p.352)
    • 4月14日 勅令第八十四号を公布 (p.352)
    • 4月19日 助成金交付の手続に関する農商務省令第六号公布 (p.353)
    • 5月1日 保険会社側は前記助成金の外に、各社の犠牲出捐として一ケ年分の保険料を払戻す旨新聞で広告 (p.353)
    • 5月5日 保険会社、支払を開始 (p.353)


参考:関東大震災と保険金騒動 / 田村祐一郎
流通科学大学論集 人間・社会・自然編』第20巻第1号(2007.07)-第23巻第1号(2010.07)掲載(いずれもPDF)