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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1911(明治44)年1月18日(水) (70歳) 渋沢栄一、財務当局と銀行家による集い「鮟鱇会」に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第51巻掲載】

是より先明治四十年一月十八日、鮟鱇会開かれ、栄一参加出席す。是日栄一、日本銀行集会所に開かれたる当会に出席し、爾後屡々当会に出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 1章 金融 / 1節 銀行 / 6款 金融関係諸会 / 4 鮟鱇会 【第51巻 p.106-108】

渋沢栄一 日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 曇 寒
○上略 四時日本銀行集会所ニ抵リ鮟鱇会ニ出席ス、松方・阪谷ノ諸氏来会ス、種々ノ余興アリ、食事畢テ九時過王子ニ帰宿ス○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.107掲載)

鮟鱇会とは、「鮟鱇を酒肴として軍国の財政を協議」した会合で、日露戦役中に国債募集の相談のために財務当局と財界人の間で1904(明治37)年1月18日に行われた会合に始まり、その後も数年にわたり1月18日に開催されています。
「鮟鱇会」という名称は、1904(明治37)年の会合での「鮟鱇汁の旨かりし」を記念して命名されました。その後、「鮟鱇会」は1909(明治42)年、1911(明治44)年にも開催されたことが、『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.106-108に掲載されています。

竜門雑誌 第二二四号・第四二頁 明治四〇年一月
○青淵先生と鮟鱇会 日露間の風雲方に急なりし明治三十七年一月十八日、経済界の有力家大蔵大臣官邸に会し、国債募集の下相談を為したる当日、鮟鱇汁の旨かりしは紀念中の紀念なりとて当日列座の人々は四年の星霜を経し四十年一月十八日、日本橋浜町三野村別邸に宴を開きて鮟鱇会と名づけたり、当日会合したる人々は曾禰前蔵相・阪谷蔵相・若槻次官及大蔵省の各局長、松尾臣善添田寿一・安田善次郎・園田孝吉・池田謙三・早川千吉郎・佐々木勇之助・高橋新吉・豊川良平・相馬永胤諸氏にして青淵先生にも出席せられたり」
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.106-107掲載)

中外商業新報 第八一七二号 明治四二年一月二〇日
    鮟鱇会演説
永代橋畔なる日本銀行舎宅に於て十八日夜開催の鮟鱇会席上桂蔵相が述べられし演説の要旨左の如くなりと云ふ
  鮟鱇会の起原は熟知せらるゝが如く、日露開戦に際し軍資募集に就き銀行家意向の存する所を知らんと、時の蔵相曾禰子の主唱にて当年の今日を以て本会の発会を見るに至れる次第なるが、抑も本会の発意は寧ろ予にあり、当時予は不幸にも四十度余の病に犯され病床にありし為め到底諸君と相見る得ざりしを以て、終に曾禰蔵相の来邸を請ひ、嘱するに本会の事を以てしたり、然るに爾来とも本会に出席の機を得ず、頗る遺憾とせし所なるに本夕幸に玆に諸君と相会し誠に欣言に堪へず、想ふに一国の基礎は経済の上に立てざるべからず、決して武力にのみ待つべきにあらず、而して今後国富の増進は一に実業家たる諸君の奮励に期待する所なれば、希くは本会発会当始の勇気を以て今後に処せられんことを乞ふ云々
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.107掲載)

竜門雑誌 二七三号・第六五頁 明治四四年二月
○鮟鱇会の開催 日露戦役中故曾禰氏等の主催にて財務当局及び銀行家一堂に集り鮟鱇を酒肴として軍国の財政を協議したる所謂鮟鱇会は一月十八日紀念日なるを幸とし、日本銀行主人側となり、同日午後五時より永代橋日本銀行舎宅に於て新年宴会を兼ね祝宴を張り席上種種の懐旧談あり、青淵先生亦た一場の演説を為し、主客歓を尽くし、午後十時散会せり、同夜の出席者左の如し
  松方侯爵阪谷男爵青淵先生目賀田男爵若槻礼次郎・荒井覚太郎・益田孝大倉喜八郎近藤廉平浜口雄幸安田善次郎妻木頼黄橋本圭三郎豊川良平早川千吉郎相馬永胤菅原通敬仁尾惟茂高田慎蔵馬越恭平山崎四男六志村源太郎浅野総一郎佃一予加藤正義池田謙三松方巌・安田善二郎・佐々木勇之助・三島子爵・山川勇木(以上来賓)松尾臣善高橋是清・山口宗茂・首藤諒・木村清四郎・島郁太郎・深井英五桜田助作(以上主人側)
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。
(『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.107-108掲載)