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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1909(明治42)年1月31日(日) (68歳) 茨城採炭専務の阿部吾市、渋沢栄一に相談役辞任要請の書を呈する 【『渋沢栄一伝記資料』第15巻掲載】

茨城採炭株式会社専務取締役阿部吾市、書を栄一に呈し、当会社の基礎既に固く復た栄一を煩はすを須ゐざるを以て、其相談役を罷め以て労を少くせんことを請ふ。栄一之に従ふ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 4章 鉱業 / 2節 石炭 / 5款 茨城採炭株式会社 【第15巻p.429-430】

茨城採炭は、1901(明治34)年9月4日に創立した採炭会社で、渋沢栄一は創立直後より1909(明治42)年1月31日まで相談役として同社に関与していました。
1909(明治42)年1月31日、茨城採炭の専務阿部吾市(あべ・ごいち、1873-1933)は、栄一に「相談役としての尊名を謹而御辞退申上度」とする書簡を送り辞任を依頼しています。その理由について『竜門雑誌』は、会社・銀行の経営者が競って栄一に相談役又は顧問を依頼するという当時の風潮を憂いた阿部吾市が、栄一を煩わさないよう自ら範を示した、と述べています。

竜門雑誌 第二五〇号・第六一―六三頁 明治四二年三月
○青淵先生と茨城採炭会社 青淵先生には先年来茨城採炭会社の専務取締役阿部吾市氏(竜門社特別会員)其他当局諸氏の請に依り同社の相談役に列せられしが、右阿部吾市氏は近来会社銀行の経営者が競いて我青淵先生に嘱託するに相談役又は顧問の位地を以てするの流風を生じ、其極多大の煩累を我先生に及ぼすが如きに至りては真に憂ふべきことにて、実に実業界の元勲大家を待つの礼を失すること甚しきものなりとし、自ら率先して一の模範を示し、此等世人の弊風を制せんとの精神よりして、先生に対し謹で同社相談役たる嘱託を解きたる旨を以て、此程左の如き書状を青淵先生に提出せられしに、先生には阿部氏殊勝の厚意を諒として、多大の満足を以て其意を容れられ、且将来とても必要に臨み応分の添心は決して辞する所に非ざる旨を答へられたりと承る。
[後略]
『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.429掲載)

栄一は阿部吾市の申し出を受けて相談役を辞任、また同じ年の6月には一部の企業を除き大多数の企業の役職を引退しています。
阿部吾市について、『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.600には「岐阜県に生る。石炭業。明治三〇年茨城採炭創立、社長。明治六年(一八七三)―昭和八年(一九三三)」と短いプロフィールが紹介されています。一方で、『渋沢栄一伝記資料』本編では「茨城採炭」「竜門社」「東京商業会議所」「大日本製糖」「関東大震災火災保険問題」などの多くの項目に阿部の名を見ることができます。
とくに1922(大正11)年に阿部の訪米に際して栄一がE・H・ゲーリー(Elbert H. Gary、実業家)に紹介状をしたためたこと(第56巻p.126-132)や、栄一の米寿祝賀の出席者に阿部が名を連ねていること(第43巻p.281)など、『渋沢栄一伝記資料』からは阿部と栄一との長い交流を伺わせる記事が散見されます。
参考:渋沢栄一は生涯に500社も会社を作ったそうですが本当ですか。どのくらいの数の会社、団体にかかわったのですか。
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一 / 渋沢栄一 / 渋沢栄一Q&A〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/answer02.html#q01
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> 鉱業:石炭 A
渋沢栄一記念財団 渋沢栄一
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/085.html
 
渋沢栄一関連会社社名変遷図 鉱業:石炭A