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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1928(昭和3)年2月7日(火) (87歳) 渋沢栄一、ウィリアム・グリフィスの死去を悼み弔電を発する 【『渋沢栄一伝記資料』第40巻掲載】

日栄一、アメリカ合衆国人ウィリアム・イー・グリフィスの死去を悼み、阪谷芳郎と連名にて、同夫人に弔電を発す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 7節 其他ノ資料 / 4款 慶弔 【第40巻 p.584-586】

渋沢栄一阪谷芳郎電報控
            ウィリアム・イー・グリフィス夫人宛
            昭和三年二月七日
                    (渋沢子爵家所蔵)
                  (別筆)
                  二月七日申上済
 紐育州プラスカイ市
  グリフィス夫人殿
日本の親友の逝去を深く悼み、深甚の同情を表す
                     渋沢
                     阪谷
  ○右英文電報ハ昭和三年二月七日付ニテ発信セラレタリ。

ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843-1928)はお雇い外国人として東京・福井に滞在、帰国後に『皇国』(The Mikado’s Empire)を著した人物です。渋沢栄一は1901(明治34)年12月の竜門社月次会で日本近世史に関する演説を行い、その中でケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716)『日本誌』とともにグリフィスの『皇国』に言及、これらの著書を「大に参考となるへきもの」と紹介しています。
渋沢栄一伝記資料』には栄一とグリフィスの交流を物語る資料がいくつか採録されていますが、第35巻にはグリフィスの経歴が掲載されています。

公第七三二号 大正十五年十月十三日
            在米 特命全権大使 松平恒雄
   外務大臣 男爵 幣原喜重郎殿
    「グリフイス」博士訪日ニ関スル件
米国人「ウイリアム・エリオツト・グリフイス」博士Dr. William Elliot Griffisハ明治初年(一八七二年ヨリ一八七四年迄)文部省ニ聘セラレ帝国大学ニ教鞭ヲ取リ、帰米後モ本邦ニ関スル多数ノ著述及講演ニ依リ本邦事情ヲ紹介スルニ努メ、一九〇八年ニハ勲四等旭日章ヲ授与セラレタル人物ナル [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.17-18掲載)

また、第45巻には栄一が1909(明治42)年に渡米実業団団長としてマンリウス兵学校を訪問した際、グリフィスの演説を聴き、その解釈に対して異を唱えて反駁を試みたことが掲載されています。

竜門雑誌  第二七五号・第二三―三一頁 明治四四年四月
    ○埼玉県学友会大会に於て
                      青渊先生
  本篇は本年二月十一日、埼玉県学友会大会席上に於ける青渊先生の講話速記なり。
[中略]
特に演説した人がグリフイスといふ人で、[中略] 大老井伊掃部頭を頗る称讚し、井伊掃部頭があつたに依つて始めて日本の開国の基礎が定つたといふやうに演説をしたのであります、[中略] グリフイス氏の言葉に依れば、其当時の日本人、西洋の事情を知らぬ人達が西洋人を目して唯夷狄である野蛮人である禽獣である、来る人は必ず国を侵略するのであるといふやうな観念を持つ場合に、井伊掃部頭はさうでなく、是非開国に限るといふ決断を以て条約を締結した為めに日本が開国になつたといふ称讚の言葉である、それに対して私の弁駁は [中略] 亜米利加の「コンモンドル」ペルリは日本の誤謬を釈かう日本の鎖港を開かうと思うたは好意に相違ないが、併ながら其時分の外国が皆好意的行動であつたかなかつたかは御考ありたいと思ふ[、]其外国中には何か釁隙があつたら是に乗じやうといふ内心のあつたことも事実分つて居る、苟も我国を大切に思ふ人民であつたならば、敵愾心の有るといふことは、洵に宜べなることであるから徳川幕府の末に憂国の志士が鎖国の主義を執つたといふことも、日本の開明を遅らせたといふ虞はあるけれども、当時に於ては果して誤謬とばかり云へぬのである、現に安政条約の一年前に、或る大国が対島を借用しやうと言つたことを貴君方は御耳に入つて居らぬか、若し是等の国をして其めに応ずるといふことであつたならば、日本は今日如何なる有様になつたであらうか、吾々が実業団として今日米国に旅行するやうな時機をも或は無からしめたかも知れませぬ、故に日本をして今日あるを致さしめたのは、敵愾心ある国民の力であるといふても宜いのであれば、井伊掃部頭が日本を存立せしめたといふ評論は其当を失つたことである、[中略] 折角の日本精通な御方であるけれども、もし一歩進んだ所迄を御知りなさらぬのは外国の御人で已むを得ぬ事と思ふによりて日本人として叮嚀に弁駁して置かねばならぬ、斯る御席に於て学者たるグリフイス君の御説に対して駁撃的のことを言ふは好まぬが、私の位地として已むを得ず此処に申述べるのであると、例を引き事実を挙げて論駁したのであります、演説が了るとグリフイス氏が手を握つて、左様仰しやれば或は聴違ひがあるかも知れぬ、私は形跡から言つたので事実を知らぬから、貴君が形跡以外の真相を述べたるは日本人としては御尤である、私は駁撃を受けても貴君に対して御怨みは申さぬ、或はつまらぬことを言ふと思つたか知らぬが向ふもさるもの、さういふことがありました。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第45巻p.108-113掲載)

栄一とグリフィスの交流について、『渋沢栄一伝記資料』中にはこの他に下記のような記載があります。

  • 1923(大正12)年9月30日:グリフィスから栄一宛震災見舞 (第40巻p.220-221)
  • 1927(昭和2)年1月14日:日米関係委員会によるグリフィス歓迎午餐会(栄一欠席) (第35巻p.5-8)
  • 1927(昭和2)年5月9日:日本女子大学校でのグリフィス講演会に臨席 (第35巻p.8-15、第44巻p.671)
  • 1927(昭和2)年5月12日:グリフィス夫妻を飛鳥山邸午餐会に招待 (第39巻p.467-468)
  • 1927(昭和2)年6月9日:上野自治会館でのグリフィス講演会に臨席 (第39巻p.467)
  • 1928(昭和3)年2月7日:ウィリアム・グリフィスの死去を悼み弔電 (第40巻p.584-586)

なお、グリフィスに関する手書きの資料、印刷物、写真などはラトガーズ大学図書館に「ウィリアム・エリオット・グリフィス・コレクション(William Elliot Griffis Collection)」として収められています。
参考:William Elliot Griffis Collection
〔Special Collections and University Archives - Rutgers University Libraries〕
http://www.libraries.rutgers.edu/rul/libs/scua/griffis/griff.shtml