徳川昭武、ナポレオン第三世の催せる観劇会に出席す。栄一之に陪す。翌四月朔日ミニストル館に舞踏を見るに陪し、同月二日アルク・ド・トリヨンフに登る。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 2章 幕府仕官時代 【第1巻 p.489-491】
1867(慶応3丁卯)年、パリ万博のために渡欧した徳川昭武(とくがわ・あきたけ、1853-1910)の随員として、渋沢栄一は3月29日(西暦5月3日)にナポレオン三世主催観劇会、4月1日(同5月4日)には大臣官邸での舞踏会に陪席しています。また4月2日(同5月5日)には凱旋門に登り、それらの見聞を杉浦譲との共著『航西日記』の中で次のように記しています。
航西日記 巻之二・第二一―二六丁
同 ○三月 廿九日 西洋五月三日 晴。夜八時より仏帝の催せる劇場を看るに陪す。
此劇場を看るハ欧洲一般の礼典にして。凡重札大典等畢れハ。必其帝王の招待ありて。各国帝王の使臣等を饗遇慰労 する常例なり。故に礼服盛儀にて往くことにして。其演劇の趣向仕組分明ならざれども。多くハ古代の忠節義勇。国の為に死を顧みさるの類。感慨ある事蹟。或ハ正当適宜の譬諺にて。世の口碑に係り。人の可咲ことを交へ。詞ハ接続に言語ありて。大方ハ歌謡なり。其歌曲の抑揚疾舒。音楽と相和し。一幕置位に舞踏あり。此舞踏も二八の娥眉名姣五六十人。裙短き彩衣〓[衣偏+粛]裳を着し。粉妝媚を呈し冶態笑を含み。皆細軟軽窕 《ヤサシクタオヤカ》を極め。手舞足踏。婉転跳躍。一様に規則ありて百花の風に繚乱 する如し。且喜怒哀の情を凝 し。一段落の首尾を整へ数段をなせり。舞台の景象《カカリ》。瓦斯灯。五色の玻璃に反射 《ウツシ》せしめて光彩を取るを自在にし。又舞妓の容輝。後光。或は雨色。月光。陰晴。明暗をなす。須臾の変化其自在《ハヤカハリ》なる。真に迫 り観するに堪たり
四月朔日 西洋五月四日 晴。暁四時郵船に託して各。書を家郷へ寄す。夜十時ミニストル館に至り。舞踏を看るに陪す。
是は舞踏の席を開き。親属知音を招待するにて。亦礼会の一なり。蓋夜茶会の盛挙なるものにして。施設も頗る華美なり。[中略] 席上花卉を飾り。灯燭を点し。庭燎の設。食料茶酒菓の備へ等。華美を尽し。其席に来れる賓客男女ともにみな礼服を盛んに飾り相集り。互に歓娯し音楽を奏し。其曲に応して男女年頃の者偶を選ひ配を求め手を携へ肩を比して舞踏す。其客の衆寡により幾所となく舞ふ。其法則ありて少年より習ひ覚 ること通例なるよし。大方暁頃に至りて散す。是則好を結ひ歓を尽し人間交際の誼を厚ふするのみならす。男女年頃の者。相互に容貌を認め。言語を通し。賢愚を察し。自ら配偶を撰求せしむる端にて。所謂仲春男女を会すといえる意に符合し。又礼義正しく彼の楽 んて淫せさるの風を自然に存せるならん。[中略] 此会を仏国にてハバルと云。恰も本邦の北嵯峨。大原。岐岨。藪原。等盆踊の類に似て大に異るものなり
同二日 西洋五月五日 晴。午前本地有名のアルクドトリヨンフといふ巨閣に登る。 アルクドトリヨンフとは、漢訳凱弓と云意にて。即凱旋の偉勲を旌表すること也といふ
此閣は。千七百年 の末初代那破烈翁[ナポレオン]墺伊諸国の戦争に殊功を奏し。凱旋の後偉勲を後世に伝ん為め。大に土木を興して建築せしもの也といふ。閣の全体横長き方面にて都て密質なる石にて築立たり。[中略] 入口ハ鉄垣を円囲して。太き鉄鎖を挂たり。閣下左方の裏面に小扉あり戸内一の暗室にて其中程に石階あり。螺旋 《メグリ》して閣上に登る。[中略]門閽 《モンバン》ありて一フランクを収む。石階の数二百八十五段にして閣上に抵る。[中略] 全石面の方庭にひとしく。眺望四顧随意なり。其廻り縁も巨大なる石にて。胸下まてもあるべく。爰にて下[瞰*]すれハ正面ハ王宮門前に直向し。凡十八丁程直きこと線のことく。[中略] 背面カラントアルメーの通街も直線のことくみえて。凡二十丁程。其間セーヌ河の鉄橋を超へ。巨大の銅像ハ初代那破烈翁なり。又正面に宏壮なる廓ハノオトレダムなり。[中略] 又左に高く聳るハパンテオンなり [中略] 又右遥に舟楫の行通ふはセヌ河なり。岸に二三の巨屋ハ。公議院 コールレジスラチイフ 鋳銭局外務局也又其右に長円なるハ。博覧場なり。なを右郊外に高きハ。モンバンリヤンといふ全府警衛の城堡なり。其側樹木森鬱《しんうつ》たるハ、ホワテブロンなり、其他郊外まて。布棊羅網。手に取るか如し。但其高聳なる目眩。股栗を。覚ふ観了て下りぬ
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.490-491掲載)
*「瞰」は印刷不良により『渋沢栄一伝記資料』上では判読不能。『航西日記』巻之二にて確認。
なお『航西日記』原文には両側にルビがあり、右側にひらがなで読みが、左側にカタカナで意味が付記されています。本ブログでは右側の読みは通常のルビとして上に、左側の意味は《 》で当該文字の後に付記しています。
『航西日記』について
航西日記ハ明治四年栄一大蔵省出仕中外国奉行支配調役トシテ昭武ニ随行セル杉浦靄山(愛蔵)トノ共著トシテ刊行セルモノニシテ、全六巻ヨリ成ル。慶応三丁卯年正月十一日横浜港出発ニ筆ヲ起シ、同年十一月二十二日英国ヨリパリニ帰着セル迄ヲ記セリ。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.477)
杉浦靄山(愛蔵)
杉浦譲
幕末、甲州勤番同心七郎右衛門良尚(号諼水)の長男。文久元年幕府外国奉行支配書物御用出役、同三年横浜鎖港使節随員として仏国に出張。慶応二年徳川昭武の仏国行に栄一と共に随行す。明治元年外国奉行支配組頭、同年静岡へ移住、同三年民部省に出仕、同四年駅逓司正。同七年戸籍寮頭兼内務大丞、同一〇年内務省大書記官地理局長となった。先に愛蔵といい靄山と号した。天保六年(一八三五)―明治一〇年(一八七七)
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.613)