情報資源センター・ブログ

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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 「実力以上に高められた生活は浮薄であり、権利のみを主張して義務の履行を怠り、名誉を思うて責任を解せざるは利己である。」(1924年9月)

記事タイトル : 禹の心を心として天譴の後に処せ
初出 : 『中外商業新報』第13826号 (中外商業新報社, 1924.09.01) p.11-18

関東大震災から1年後の1924(大正13)年9月1日、渋沢栄一は『中外商業新報』に談話を寄せています。その中で栄一は、古代中国の君主、禹(う)の逸話から、復興事業に際しての心がけについて次のように希望を述べています。

 月日の経つのはまことに早いもので、あの恐るべき震災から既に三百六十五日を経過したかと思ふと夢のやうである。わが国は古来比較的幸福な国で、あまり甚だしい災禍を蒙つた事がない。[中略] ところが昨年九月一日の地震の結果は、実にわが国が嘗て経験しなかつた悲惨なものであつた。余は十五歳の時安政の大地震にあつたが、当時は埼玉の片田舎に居たので江戸の惨状を親しく目撃したのはその年の冬であつたから、大地震を体験したのは昨年が始めてであつた。市中の惨憺たる有様を見ると、これを幾分でも緩和する方法を講じたいと思はないではゐられない。そこで九月五日に商業会議所を誘つて震災善後会の設立を企てた。これは七日に徳川公爵及び粕谷衆議院議長も加はられて政治家実業家聯合のものとなり、多くの救護団体を援けることが出来た。余は昨年あの地震を天譴であるといつた。この天譴といふ言葉は見方によつては一種の迷信と見られなくもないが、余は決してさうは思はない。近来わが国民の傾向を見ると古の君子の戒めた寸陰をも惜んで働くと云ふやうな美風邪は地を払ひ生活状態は実力以上に高められて居り、思想においては自らの義務や責任を思ふ前に先づ権利を主張するやうになつて来たやうに思はれる。実力以上に高められた生活は浮薄であり、権利のみを主張して義務の履行を怠り、名誉を思うて責任を解せざるは利己である。人心がかういふ風になつた時にあの振古未曾有の大天災があつた事は、自然が人をいましめたと見ても差支ない。若しそれが科学的でないといふにしても、人心が緊張して居たら同じ天災でもあれ程の惨状を見ないですんだものを、人々の心が弛緩して居た結果、その影響を特に大ならしめたでは無いか。これを天譴と見る事は何等不都合はないと思ふ。しかもかくの如き天譴を蒙つた後人心は果してどうなつたか。政治の方面を見るに、過去一年間既に内閣は三度更迭した。その中には清浦内閣の如く初めから永く仕事をしない積りで居る馬鹿々々しいものもある。今度の内閣のやるところ見ると、幸ひに綱紀の粛正や財政行政の整理等、時宜に適した事をやつて行かうとするやうであるから、三派の結束を堅くして、充分所信を実行させたいと思ふ。併し震災後政府で手を拡げた復興事業の成績を見ると一向はかどらないやうで、殊に最近は忌はしいうはささへ耳にする程である。これまた人心の弛緩を物語る証拠ではないか。昔支那の禹と云ふ人は、今日で云へば土木事業――即ち治水の局に当つて大いに努めた人であるがこの禹は常に寸陰を惜しんだのみならず、僅少の物資をも決して粗末にしなかつたと、太田錦城の梧窓漫筆にあるのを読んだことがある。さればこそ尭、舜、禹、三代が支那の黄金時代と認めらるるに至つたのである。今日復興事業の局に当る人々にはどうぞこの禹が寸陰をも惜しんで民のために尽した心掛けを以て、大いに努力するやうにして貰ひたいと思ふ。震災後一日といへども当時を忘れてゐる人はない筈であり、また忘れてはならない訳であるが、時が経つに従つて自然幾分気の緩むことがないとも限らない。市の標語にもある通り、特に緩む心のねぢを巻きつつ本日の一周年に当り当時惨状の記憶を新にして、官民挙つて努力したいと思ふ。

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7 p.592-593掲載)