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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 フィップス温室 - 渡米実業団が訪問したピッツバーグの今昔 (8)

フィップス温室の今 / フィップス温室の歴史 / 創設者ヘンリー・フィップス

フィップス温室の今 - 誤訳の発見

 今回のピッツバーグ訪問に当たり『渋沢栄一伝記資料』記載の該当箇所を抜き出した中に、「フィリップス音楽学校」というものがありました。ところがシェンリー公園の中のそれらしき場所にあったのは、下の写真の通り、巨大な温室です。表札には”Phipps Conservatory”とあり、「フィリップス」は「フィップス」の間違いだとわかりました。次に「Conservatory」を辞書で引くと、「音楽学校」という意味もありますが、もともとは「温室」だとわかり、こちらも間違いでした。この場所は渡米実業団の婦人の部が訪れているのですが、記録を作成したのは男性陣なので、実態を見ずに字面だけで翻訳したものと思われます。

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フィップス温室 外観 フィップス温室 表札
外観、真ん中入口に小さく白く見えるのは入館者 表札
 時間がなかったので中には入ることができませんでしたが、鉄の枠組みにガラスが貼られた巨大な温室は遠くからでもよく見えて、その存在感に圧倒されました。フィップス温室のウェブサイトからは中の様子をたくさん見ることができますが、その規模といい充実した植物といいすばらしい空間でした。(2012年3月20日訪問)

フィップス温室の歴史

 この温室は実業家ヘンリー・フィップス(Henry Phipps, 1839-1930)が作ってピッツバーグ市に寄贈したもので、彼は労働者が憩いの日に訪れることができるよう、日曜日に公開することを決めました。建物は10万ドルかけて設計され、最初の植物は1893年11月に閉幕したシカゴ万博(シカゴ・コロンブス万博)会場から運び込まれたそうです。
 1902年にはサボテンハウスが追加され、1930年代には訪問者が展示の中を歩くことができるように再設計されました。渡米実業団婦人の部が訪れたのは1909年11月ですので、まだ展示の中を歩くのでなく、植物を外側から観て廻ったのだろうと思われます。
 1910年には水生庭園が造られ、睡蓮などが展示されました。1937年2月の暴風で温室は多大な被害を蒙り、修理のため20か月閉鎖し翌年秋に再オープンしました。1943年に50周年を迎え、復活祭のフラワーショーには1万6千名が訪れました。1989年には創立100周年を祝いました。1991年に新しく整備された日本庭園は盆栽もありとてもユニークな存在です。1993年にフィップス温室株式会社(Phipps Conservatory, Inc.)がピッツバーグ市と100年間のリース契約を結んで管理を引き継ぎ、「フィップス温室植物園」(Phipps Conservatory and Botanical Gardens)と改名しました。民間の運営に移った植物園は今日も新しい展示やイベントのために発展し続けています。

創設者ヘンリー・フィップス

 温室の創設者ヘンリー・フィップスはカーネギー製鋼所の共同経営者でしたので、『アンドルー・カーネギー自叙伝』にもしばしば名前が登場します。原書には索引があるので、カーネギーとの関係をいろいろ知ることができます。それを読むとフィップスが事業に対し意欲的で真面目に取り組み、成功した暁には社会事業に財産を投じている姿が浮かんできます。そして「公園に温室を寄贈し、それを労働者のために日曜に公開した」というエピソードも紹介されていました。製鉄所の煙が充満する街に、緑を楽しむ空間を創設した実業家の心意気を感じることができました。
 ただし、原書では "Years ago he gave beautiful conservatories to the public parks of Allegheny and Pittsburgh.(p133)" となっているところの小畑久五郎訳は、「数年前に彼はアレゲニーとピッツバーグとの公園に美麗な音楽堂を寄付した。(p198)」というものです。つまり"conservatories"を「音楽堂」と訳しており、「温室」という意味があることが当時は全く理解されていなかったと考えられます。あるいは小畑は渡米実業団の記録をみて「音楽堂」と思い込んだのでしょうか。
フィップスのそのほかの社会事業

参考リンク