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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 【長野】 内山峡の巌碑除幕式 - 内山峡詩碑 【『渋沢栄一伝記資料』第44巻掲載】

1940(昭和15)年11月24日 (没後9年)
是日、長野県南・北佐久郡有志により、南佐久郡内山村の岩壁に鑿立せられたる、「渋沢青淵先生内山峡之詩」碑の除幕式挙行せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 5 内山峡詩碑 【第57巻 p.866-868】

 青年時代、家業の藍販売のため信州、上州、秩父や東京近郊等を訪れていた渋沢栄一は、19歳の折に従兄尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう、1830-1901)と「巡信紀詩(じゅんしんきし)」を合作しました。
 栄一他界から9年後の1940(昭和15)年、「巡信紀詩」中の栄一による長詩「内山峡」に感激した信州佐久の小林義助は、地元有志らとともに現地内山峡に栄一の詩碑建立を発願、南佐久郡内山村肬水(いぼみず)の巖壁に詩碑を制作、11月24日に除幕式が挙行されました。
 栄一の嫡孫渋沢敬三は式の前日より佐久に入り、栄一と親交のあった小山邦太郎(こやま・くにたろう、1889-1981)邸に宿泊、翌日は内山峡での式に赴く途上で栄一と懇意であった木内芳軒(きうち・ほうけん、1827-1872)の生家にも立ち寄っています。
 芳軒の外孫木内敬篤は詩碑の手引石に書を寄せて、その由来について「92歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく再吟して…その功業徳望の由来するところを感得せずんばあらず因て郷人有志相謀り茲に巖碑を鑿立して仰景の意を致すと云」と記しています。
 なお、1988年刊行の『渋沢栄一碑文集』(博字堂、山口律雄・清水惣之助共編,p57-59)には「内山峡の碑」として碑の拓影、全景写真、長詩全文が紹介されています。

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