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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 「長崎」を検索すると - 地理地名編

 NHK大河ドラマ「八重の桜」では、主人公山本八重の兄の山本覚馬(やまもと・かくま、1828-1892)が目の治療と洋式銃の買い付けのため、長崎を訪れました。そこで「長崎」をおもしろ社史検索してみました。1,500件以上もヒットしたのでその中から1850年嘉永3)〜1867年(慶応3)の年表データを抽出し、さらに58件に絞り込んでご紹介します。なお、この時期の年表は旧暦と新暦が混在している可能性があります。

検索結果からみえてくること

  • ペリーが浦賀に来た1853年(嘉永6)には、長崎にもロシアのプチャーチンが来航しました。幕府は大船建造の禁令を解き、外国人から造船技術を学び、長崎に鎔鉄所(製鉄所)を作りました。これは後に造船所になっていきます。
  • 1855年安政2)には長崎に海軍伝習所が作られ、1期生勝麟太郎勝海舟。かつ・かいしゅう、1823-1899)らが学びました。西村勝三(にしむら・かつぞう、1837-1907)は伝習生に志願し失敗したそうです。翌年の2期生には榎本釜次郎(後の武揚。えのもと・たけあき、1836-1908)らの名前が挙がっています。幕府がオランダに注文した軍艦が1857年(安政4)長崎に回航し、咸臨丸と命名されました。伝習所は1859年(安政6)閉鎖され鎔鉄所に併合されました。
  • 長崎鎔鉄所(製鉄所)には本木昌造(もとき・しょうぞう、1824-1875)や平野富二(ひらの・とみじ、1846-1892)ら、後に東京で活躍する人物も関わっていました。また岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835-1885)や坂本竜馬(さかもと・りょうま、1836-1867)らも長崎に出入りしていた様子が書かれています。
  • このほか海外の新しい技術や機械類が長崎を窓口にどんどん日本に入り、日本人がそれらを吸収していく様子が年表に現れています。これらの事項を掲載しているのは造船業界や機械業界の社史のほか、建設、商社、保険、海運など多くの業界の社史です。今回は割愛しましたが、それらの社史の目次や索引にも「長崎」は多く表れています。

検索結果(抜粋)

内容年月日『社史タイトル』
(発行所、発行年)
種別(詳細)
米使ペリー浦賀(6月)、露使プチャーチン長崎(7月)に来航 幕府、大船建造の禁令を解く(9月)1853三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(日本)
徳川斉昭、近臣を長崎に派遣、オランダ人から造船技術を聴聞1854.07石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(石川島重工業)
ジャガタラ総督使船として軍艦ヘデーを長崎に派遣し、艦長ファビヤスに海軍開設に必要な事項など建議せしむ1854.07『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
長崎の蘭医柴田方庵、来客約20人に西洋料理を供応1854.12.08『帝国ホテル百年史』(帝国ホテル、1990)年表(業界・一般事項)
蘭国王ウィリヤム3世、スームビングを幕府に献上(安政3年4月「観光」と改称)、長崎にて授受(外輪汽船、スクーナコルベット、長170呎、巾30呎、150馬力、3檣、1850年、オランダ、ワレシング市にて建造)1855.06.08『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
徳川幕府長崎製鉄所の建設を企図す 2541855.07三菱重工業株式会社史』(三菱重工、1956)年表(一般)
幕府、長崎に海軍伝習所を起す(この計画に本木昌造個人的に関係す)1855.07『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
海軍伝習生長崎到着、勝麟太郎、矢田堀景蔵ら幕臣37名、大工職2名、他に諸藩の有志者129名、教場は長崎西奉行所(担任者、永井玄蕃頭)1855.12『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
幕府は蘭国王贈呈の軍艦1隻を受領しその後船の購入、或いは製造漸く多く、またこれら艦船の修理を考慮、長崎に工場創設を企図し、蘭国より教師その他職方を聘し、同時に必要器具、機械等の購入を長崎奉行岡部駿河守に下知す。長崎造船所の起源胚胎す1855『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
蘭国造船株式会社が1855〜1865の10年間に日本長崎に引渡した貨物は、舶用蒸汽機関3台、陸上機関4台、工作機械25台であった(蘭国WILTON FIJENOORD 1854〜1954百年史より抜萃)1855『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
西村勝長崎海軍伝習所へ志願し失敗1855『大塚製靴百年史』(大塚製靴、1976)年表(業界)
幕府長崎に船舶修理工場を開く1856『東京石川島造船所五十年史』(東京石川島造船所、1930)年表(一般重要事項)
海軍伝習生第2回募集学生12名(全員幕臣)、長崎到着、榎本釜次郎(後の海軍大臣榎本武揚)、肥田浜五郎(後の海軍機技総監)ら在学1856『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
永井玄蕃頭、伝習所第1期生の内16名(教授方8名、教授方手伝8名)を引卒、観光丸にて長崎出帆(江戸より木村図書到着。永井監察と交代)1857.03『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
長崎大波止船場にてカッター竣工。蘭人指導のもとに伝習生建造す。(「長崎形」木製、長12間、巾3間、帆、1檣)1857.07『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
幕府がオランダに注文した軍艦が長崎に回航威臨丸と命名1857.08.04浦賀・追浜百年の航跡 : 1897-1997』(住友重機械工業(株)横須賀造船所、1997)年表(業界及び一般情勢)
幕府、蘭国へ依頼の軍艦ヤッパン長崎入港(1856年、蘭国カンテルク市にて建造、機関の一部は蘭国造船株式会社(NSM)製作、蒸汽内車、スクーナコルベット、長163呎、巾24呎、100馬力、3檣、後「咸臨」と改称)、W.J.C.リッダ・ハイセン・ファン・カッティンディッケ指揮の蘭国艦隊護送、機関長ハー・ヘルデス、軍医J.L.C.ポンペ・ファン・ミールデルフォルトほか新教師、将校、准士官下士官ら37名来崎1857.08.05『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
徳川幕府、長崎鎔鉄所建設に着手(文久元(1861)年3月長崎製鉄所として完成)1857.10.10『海に陸にそして宇宙へ : 続三菱重工業社史. 資料編』(三菱重工、1990)年表(当社事項)
長崎浦上村淵字飽ノ浦の地に鎔鉄所設立に着手、工事は御雇蘭人機関長ハー・ハルデス総指揮による
鎔鉄所惣地所 3840坪16 付属地所 5200坪12 合計 9040坪2合8勺
御雇蘭人名 教師ハー・ハルデス ただし当年より4ヵ年雇入、1ヵ月洋銀300枚ずつ、万延元年12月解雇、帰国
機械方 アーケン、ラスコイト ただし上2名1ヵ月洋銀120枚ずつ(文久元年解雇、帰国)
轆呂職 ヤンセン、ビュルゲル、ハーフィンキ 鑢子職 ウヰルデブール 鍛冶職 マイソル 銅細工職 ワイエンフルーク 木形職 フェルテカンフ 造缶職 アンデレース ただし上8名1ヵ月洋銀61枚ずつ(文久元年解雇、帰国)
1857.10.10『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
平野富二、長崎奉行所御用所番に任命される1857.01石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(石川島重工業)
このころ長崎溶鉄所にて木製汽船瓊浦形建造(わが国における最初の汽船)1857『石川島重工業株式会社108年史』(石川島重工業、1961)年表(参考事項)
長崎鎔鉄所でわが国初の赤煉瓦製造を行う1857『日本煉瓦100年史』(日本煉瓦、1990)年表(業界・一般)
長崎大波止にて「晨風丸」船卸(カッター、木製、長72呎、巾19呎、深14呎、50噸、帆、1檣、安政4年11月11日起工)(佐賀藩造船史)1858.04.11『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
幕命により建造の「朝陽」長崎に入港(蒸汽内車、長163呎、巾24呎、100馬力、砲12門、1856年、蘭国カンテルク市にて建造)1858.05『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
入港中の英船よりコレラ病、長崎市中に伝播1858.07『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
長崎鎔鉄所は鍛冶場、工作場、鎔鉄場の3工場に始まる
鍛冶場 間口(邦尺)4丈7尺8寸1分、奥行7丈6尺4寸
工作場 間口(邦尺)15丈4寸、奥行8丈3尺3寸3分5厘
1858『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
長崎海軍伝習所閉鎖(長崎溶鉄所に併合)1859.02.09石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(一般事項)
(末) 長崎海軍伝習所教師一行帰国(但軍医ポンペ、機関長ハルデスほか数名滞在)1859.02『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
飽ノ浦工場創設のころ瓊浦形と称する汽船を製造(長15間、巾3間)、わが国汽船建造の嚆矢
造船所を兼ねた海軍伝習所(軍艦操練所)を廃止、長崎鎔鉄所に合併
1859.05『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
幕府、1月神奈川・長崎・函館3港を開港し、6月以降英・仏・米・露・蘭との自由貿易を許可1859.05三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(日本)
長崎出島のオランダ商館を閉鎖1859.06『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
長崎奉行岡部駿河守、蒸汽機関工場を参観、蒸汽鎚の打初式を行なう1859.08.22『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
弥太郎、吉田東洋の推挙で長崎に出張す1859.08三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(高知)
英P & 0社、上海・長崎航路開設1859日本郵船株式会社百年史』(日本郵船、1988)年表(業界・一般事項)
海軍伝習所閉鎖の主因は、当時、江戸幕府の最も困難な時代で北米と本条約書交換のため使節派遣の必要が目前に迫り一方露艦、英艦など再渡来し、世情騒然、内憂外患の最高度に達した時代で、伝習生の業もほぼ熟練し、長崎の地が首府より離れ不便多く、安政4年、江戸築地講武場に軍艦操練所を設け漸次のり出したためである(日本近世造船史)1859『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
弥太郎、藩の許可を得ず長崎より帰り免職1860.04三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(高知)
長崎小島郷に養生所設置(長崎大学医学部付属病院の起源)1860.05『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
本木昌造、長崎鎔鉄所御用掛任命(37歳)1860.11『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
長崎奉行岡部駿河守、ハルデスらとともに、長崎鎔鉄所の上棟式を行ない、「長崎製鉄所」と改称、据付を終った。一切の機械代、銀554貫562匁7分5厘1860.12.12『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
幕府の千歳丸、上海出貿易のため長崎出航1861.04三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(日本)
平野富二、長崎製鉄所機関手見習となる1861石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(石川島重工業)
長崎御用銅定高を93万斤に減額1862.08『住友別子鉱山史. 別巻』(住友金属鉱山、1991)年表(住友・一般)
長崎奉行大久保豊後守、軍艦打建ならびに修船場取建などに蘭国職人14人呼寄せ方を幕府へ出願1862.11『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
長崎奉行、服部左衞門佐、浦上村淵立神郷に軍艦打建所創設のため、海面12,160坪を埋立て、その基礎を作らんとしたが、神戸海軍練習所に軍艦製造局設置のこととなり、飽ノ浦製鉄所も操練所の付属となったので、立神軍艦製造所を造船場と改称、建築工事を継続した(立神造船工場の前身)。なお、ここに船渠築造の予定であったが中止し、機械器具類一切を製鉄所に移管した1863.03『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
長崎製鉄所、神戸操練所の付属となる1863.06.05『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(参考事項)
長崎奉行は新規に軍艦打建のため船材伐出し方について、西国筋代官所ならびに預所役人へ御達し方を御勘定奉行へ願出た
勘定奉行より、船材伐出し方に日向椎葉山およびその最寄りの諸山を調査の上、模様により天草御料林見分けを長崎奉行へ指示した
1863.11『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
長崎製鉄所で“千代田形”搭載用円筒型鉄製ボイラ完成(日本初の軍艦用ボイラ)1863石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(一般事項)
長崎奉行服部左衞門佐に、製鉄所雇、蘭人造船師カール・レーマン、造営師シャルレス・レミーは、鋼鉄鋳物場新規取建の件、および軍艦打建所、製鉄所の不足機械を蘭国へ誂え方を伺い出た1864.03.07『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
薩摩島津藩家老新納刑部久修と藩士五代友厚ら19名は長崎より英船に便乗して渡英の途につく。1865.03.22『ニチボー75年史』(ニチボー、1966)年表(業界ならびに内外情勢)
薩摩藩の名義で長崎の英商グラバーより鉄砲購入が実現1865.07三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(日本)
長崎製鉄所の経営困難につき本木昌造が改革意見を提出1865.08『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)
天皇、長崎・神奈川・函館の3港開港勅許。条約改正を幕府に命令1865.10.05石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(石川島播磨重工業、1992)年表(一般事項)
島津藩の紡機、長崎に入荷。1866.01.012『ニチボー75年史』(ニチボー、1966)年表(業界ならびに内外情勢)
幕府、神奈川・長崎・函館に出稼ぎ・自由交易及び商人の外国船舶の購入を許可1866.02三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(日本)
幕府、長崎御用銅の廃止を通達、以後別子銅は地売銅として銅座買上げになる1866.07『住友別子鉱山史. 別巻』(住友金属鉱山、1991)年表(別子)
開成館奉行後藤象二郎、長崎出張 長崎滞在中の坂本龍馬と提携を策す1866.07三菱商事社史. 資料編』(三菱商事、1987)年表(高知)
幕府、長崎御用銅の廃止にともない買請米廃止を通達、幕府にその継続を出願1866.08住友林業社史別巻』(住友林業、1999)年表(別子)
岩崎弥太郎、長崎土佐商会主任として赴任(主として外商と船舶武器の取引に当る)1867.03『創業百年の長崎造船所』(三菱造船(株)長崎造船所、1957)年表(重要事項)

参考リンク